明智光秀を謀反に走らせた信長の「四国政策」
本能寺の変に関しては、昨年6月に大発見があったことは記憶に新しい。林原(はやしばら)美術館(岡山市)で昨年発見された「石谷家(いしがいけ)文書」のなかの(天正10年)5月21日付斎藤利三(としみつ)宛長宗我部元親宛書状に、決定的な内容が含まれていたのである。
変より10日前に認められた本書状は、光秀がクーデターに踏み切った最大の契機について、長年にわたり親密な関係にあった土佐の戦国大名長宗我部氏が、目前に迫っている信長の攻撃によって危機的状況に追い込まれたことを明示する。これについては、光秀の決起によって長宗我部氏が滅亡しなかったこと、山崎の戦いの直後に光秀方の縁者が少なからず土佐に落ち延びていったこととも無関係ではあるまい。
今回の発見によって、本能寺の変の主要な原因が確定したといえる。長らくいわれてきた光秀の個人的な感情にもとづく偶発的事件などではなく、信長の強引な四国統一策の変更がもたらした光秀の離反・反撃だったのである。光秀は、信長と元親との間に立って取次役を果たしてきた。これによって、本能寺の変に関する研究が織田政権論に直結することが確認されたと言ってもよいだろう。
クーデター直後に、近江山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)や北近江の分郡守護家の京極高次が長浜城を、また若狭守護家の武田元明(母が足利義晴娘)が佐和山城を占拠したものの、光秀が期待していた義昭と毛利氏ら反信長大名衆の上洛までには至らなかった。
彼らは、畿内から遠く離れ孤立し、信長との対戦で相当に消耗していた。しかも長宗我部氏は阿波の三好氏、毛利氏は備前の宇喜多氏、上杉氏は越前の柴田氏というように、眼前の敵対勢力を打破せねば上洛は不可能だった。変直後から秀吉が的確に行動したため、義昭を頂点とする旧勢力の連携が機能する時間を与えなかったのである。
問題は、冒頭で紹介した光秀書状にみられる義昭との連携である。鞆の浦にあった義昭は、どのようなルートで光秀に接近したのか。これまで最大の謎だったのが、「石谷家文書」の発見によって氷解した。それは、光秀の重臣石谷氏が天正10年正月以来土佐の元親のもとに下っていたからである。当時、義昭と元親は連絡を取り合っていた。すなわち元親を介して、義昭と光秀がつながっていた可能性が濃厚になったのである。
本能寺の変には、複雑な人間関係が交錯していた。その基底には、四国領有をめぐる長宗我部氏と三好氏との戦いがあった。長宗我部氏を支持する光秀、三好氏と入魂な秀吉、この生き残りをかけた派閥抗争が、最終的には主君を討滅するという歴史的クーデターへとつながっていったのである。
光秀が義昭を推戴したことからも、背景としては200年も続いた室町幕府体制と、信長を頂点とする新たな武家国家との相剋があったことは言うまでもない。その原点は、変の10年前の元亀4年(1573)7月に、義昭が山城槙島城(京都府宇治市)で信長に敗退したことにあった。亡命した義昭が落ち延びたのは、紀伊由良の興国寺(和歌山県由良町)だった。
ここは臨済宗妙心寺派の古刹として有名であるが、開山は法燈国師(ほつとうこくし)すなわち心地覚心(1207~98)である。しぶとくレジスタンスを試みた義昭だったが、畿内とその周辺地域が織田方となってしまったため、天正4年2月には鞆の浦へと移動する。
筆者は、間違いなく熊野水軍の手を借りて海路で鞆の浦に入ったと思う。この地は、熊野信仰はもとより臨済宗法燈派とも深い関わりがあった。しかも、初代将軍足利尊氏と10代将軍足利義稙という二人の将軍が、ここに立ち寄った後に上洛して政権を奪取したという、きわめて縁起のよい土地柄だった。
読者の皆さんにはなじみが薄い将軍足利義稙であるが、管領細川政元のクーデターによって将軍職を廃され(この頃までは義材と名乗る)、13年にも及ぶ長い亡命生活の末に周防山口の戦国大名大内義興(よしおき)の支援を得て京都を奪還し、将軍職に復帰したという強者(つわもの)であった。義昭は、この佳例を知っていたに違いない。
今回、漁船をチャーターしてもらい寒風吹きすさぶ瀬戸内海から鞆の浦に入った。義昭一行も、寒空のもと当地に到着したに違いない。風光明媚な仙酔島の対岸に投錨した彼らは、尊氏と義稙が逗留した小松寺に入り、やがて後に鞆城が築かれる要害の地に御所を設けて、側近らとともに移り住んだ。「鞆幕府」の誕生である。
教科書には、相変わらず元亀4年7月の義昭追放を室町幕府の滅亡としているが、果たしてそうなのだろうか。現在の鞆の浦とその周辺地域への取材をもとに、当時の人々の歴史認識に迫りたい。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。