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東海道新幹線開業50周年×『サライ』創刊25周年記念共同企画
「私と新幹線」写真とエッセイ・コンテスト受賞作品発表

昨年10月1日に開業50周年という節目を迎え、新たな一歩を踏み出した東海道新幹線。創刊25周年を迎えた『サライ』では、JR東海とともに「東海道新幹線開業50周年×『サライ』創刊25周年記念共同企画『私と新幹線』写真とエッセイ・コンテスト」を実施しました。『サライ』11月号(2014年10月10日発売)の誌面と過去の記事に続き、エッセイ部門 佳作の作品をご紹介します。
※基本的には、ご応募いただいたエッセイをそのまま掲載しています。時間の表現(◯年前、今年◯歳など)は、作品をご応募いただいた2014年8月31日時点のものです。

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「私と新幹線」写真とエッセイ・コンテスト エッセイ部門 佳作

「私と新幹線」鈴木美奈子(千葉県)
「おねえちゃん、来たよ!」
二つ年下の妹が、やや緊張した声で私に耳打ちしました。アイスクリームの売り子さんが社内に入ってきたのです。それは、ドアが開くたびに「ちがった」「またちがった」と、ひとり言をいっていた妹が、ついに本命を見つけた瞬間でした。
 小学三年生の夏休みのことです。私たちは新幹線『ひかり』で、名古屋から東京に向かっていました。二人だけで乗るのは、初めてのことでした。
 売り子さんを呼び止め、お金を払うのは私の役目です。「すみません」という声が少し震えてしまいましたが、無事にミッションを終えて手にしたアイスクリームの味は、別格でした。
 新幹線は時間どおりに東京駅に到着しました。心配そうな面持ちで私たちを探している祖母の姿を見つけたとき、心から安心したのを覚えています。そして、嬉しさと、アドベンチャーを終えたような達成感で胸がいっぱいになりました。
『ひかり』と私は、ともに今年50歳を迎えます。あの頃からの夢だったピアニストになり、今もコンサートや講座のお仕事などで新幹線にはずいぶんお世話になっています。
「アイスクリームいかがですか」
これからも売り子さんの声を聞くたび、あの夏の日の『ひかり』を思い出すことでしょう。 

 

「父と新幹線」小松原陽子(東京都)
私の父は新幹線の車掌長でした。開業当初から勤務し、当時は博多までの乗務がありましたので、物心がついた頃から週に数日は家にいませんでした。さみしかったけれど、そのかわり平日に公休が当たると幼い私を保育園まで送迎してくれました。手をつなぎながら一緒にたんぽぽを摘んだりもしてくれて、母よりもゆっくり通えるのが楽しみでした。
 約20年の乗務のなかで父からよく聞いていたのは、1968年選抜高等学校野球大会で埼玉県の大宮工業が優勝し、帰京の際に父の列車に乗ってきたことです。大紫紺旗を目の前にナインから「車掌さんも記念にぜひ持ってみてください」と言われとても迷ったのですが、新幹線車内で見るあまりの大きさに小柄な父はびっくりしてしまい、せっかくの申し出を断ってしまったそうです。「あの時は重くても持っておけばよかったなぁ」と夏が来るたびに話していました。
 昨年末に父が亡くなった際に親戚から「おじさんに新幹線開業前に試乗運転に乗せてもらえたのが自慢だったよ」とか「修学旅行で団体専用車に乗ったらおじさんの乗務で嬉しかったよ」の話が聞けて、私が知らなかった父の乗務の様子がわかり誇らしく思いました。鉄道マンらしく時間に正確でいつも時計を持ち、体調を崩すまで毎日日記を書き続けた父。今は遺品整理のなかから乗務のテープが見つかり、在りし日の声を聞いています。現在のように自動音声ではないカセットテープは、目を閉じると制服姿の父が思い出されます。特に白い夏制服がお気に入りで、晩年いつも写真を持ち歩いていました。今年、新幹線は開業50年。父も遠くで喜んでいることでしょう。夢の超特急での乗務・・・それは父が一番輝いていて生涯ずっと自慢出来る、かけがえのない夢を運ぶ仕事であったと思います。  

 

 

「それぞれの旅立ち」須藤和子(東京都)
 若いころ石油会社の大阪支店で働いていたが、東京本社に勤めていた夫を紹介されて、昭和三十九年二月にお見合いをした。東京転勤と同年の十一月七日に結婚することになった。
 東京オリンピック閉会式の直後で、人々の心には、すばらしい競技の感動がまだ残っていたころだった。オリンピック開催に向けて昭和三十九年十月一日に開通したばかりの新幹線で、両親と挙式の前日に大阪を発った。
 気がかりだった一人娘の遅い旅立ちに、ほっとしながらも、東京駅へとひた走る超特急の速さに、両親は複雑な心境だったと思う。長く一緒に暮らした老いた父母とも、これが最後の旅になるかもしれない、と一抹の不安はあったが、それ以上に、これから立ち向かう新生活への緊張感でいっぱいだった。
 結婚生活も無事にスタートし、息子も一人生まれて、順調に三人で暮らしていたのも束の間で、大阪の両親が交互に、入退院をするようになった。「遠距離介護」で度々、幼い子を連れて、新幹線で往復していたが、ついに両親を呼び寄せることにした。
 年老いてからの上京に、初めは反対していた父も、私たちの立場を思いやってくれたらしい。今なら大阪の介護付き有料老人ホームに入居したことと思うが、自宅を買い替えて練馬区内に住むことになった。
 近くで看取れるので私は安心したが、長年住み慣れた大阪近郊の箕面の山里を去るのはさぞ淋しかっただろう。大阪万国博覧会があった翌年に、移転する両親と再び一緒に新幹線に乗った。父は思ったより明るくて、大好物の浜名湖名産、うなぎ弁当を「うまい」と言って食べていたのを思い出す。
 その後、東京暮らしに馴染めるかと案じたが、幼稚園児の孫がよく遊びに来たり、近所の方々のお蔭だったのか、最晩年の六年~七年間、寝たきりにもならず、母は八十五歳、父は九十歳の天寿を全うし、安らかに永眠した。
 親切に看病を手伝ってくれた夫も退職してから度々、新幹線で二人旅を楽しんだが、三十三年連れ添って死別した。私たちと同じ年に出発し、ともに歩み親しんできた新幹線は、今も元気に走り続けて五十周年を迎える。もし夫が健在ならば、今年は金婚式だった。
 新天地に赴く人々の車中での思いは、時代や年齢に関係なく、誰も期待と多少の不安を抱いて目的地に向かうことだろう。私も人生の旅立ちのとき乗車した、開通して間もない新幹線の印象は、今も鮮やかに甦っている。 

 

「夢の超特急」山本光孝(神奈川県)
 新幹線開業当時、僕は8歳だった。
 小学校から帰ると何度もページを繰って既にスト―リー展開の全部が頭にはいっているマンガ月刊誌(それは「少年」であり「少年ブック」「少年画報」だったりした)の人気連載マンガを飽きることなく毎日丹念に読んだ。それはいかにも当時の一人っ子らしい遊び方ではなかったか…と思う。
 母は自宅兼洋裁店で数人のお針子さんと共に、いまでいうオートクチュールの洋服を縫って忙しい毎日を過ごしていた。
 ある日曜日の朝、久しぶりに家でのんびり朝刊を広げながら父が言った。「光孝、新しい超列車の名前を募集してるぞ」まもなく世界最高の夢の超特急が走るという事は、僕もマンガ雑誌のカラー巻頭特集で知っていた(カラーページでなくて2色刷り特集記事だったかもしれない。いずれにしても未来の超特急新幹線号は、少年雑誌ばかりか幼児が見る雑誌にも頻繁に登場して、子供達の興味を集めていた)。
 夢の超特急の名前が公募されるという新聞広告を、横からお茶碗を片手に覗き込んだ母も言った。「そうよ応募してごらんよ、よく考えて」
即答はしなかったけど、僕はその場でいくつか適当な名前を頭に浮かべながら朝ご飯を掻きこんでいた。
 それからどのくらい後だったか、記憶もあいまいなのだが、新幹線開業を控えたある日、父が新聞を見ながら僕に言った。「光孝、超特急の名前が決まったぞ」
 僕はドキドキしながら父が結果を告げるのを待った。「一等の超特急の名前は、ひかり。それから二等の急行の名前も出てるぞ。こだまになった」
 結果を聞いて僕の落胆は大きかった。「ひかり」という名は僕がまったく思いつかなかったもので、悔しいがそれはなかなか素敵な名前である気がした。ただ次ににやけっぱち気味にこうも思った。「こだま」っていう名前はいま走っている急行と同じ名前じゃないか。それでいいの? それってブラッシ―と同じで反則なんじゃないのか(ブラッシーは吸血プロレスラーの名前だ)。「新しいものではないけど、こだまっていう名は応募の人数がとても多かったらしいよ。それだけ親しみやすいということなんだろうなあ」
 父は言ったけれど、正直僕は納得がいかなかった。「おまえはどんな名前で応募したんだ」
父が僕の顔を覗くようにして尋ねた。
「この子がつけた名前はね」奥の台所から出て来た母が言った。
「いいよいいよ、落ちた名前の事なんて」あわてて僕は二階へと階段を駆け上がった。
 母は、僕が考えた名前を書き込んだハガキに住所その他の項目を書き込んで投函してくれていたのだった。応募に際して、当時一番気に入っていた呼び名を書いた。
それは忍者マンガに出てくる登場人物、必殺技から連想して、僕なりにこれ以上カッコいい呼び名はないと信じて応募したものだった。僕の付けた名は「はやて」。
 新幹線開業後、それほど時間が経過しない日、両親は僕を新幹線に乗せてくれた。鼻先の尖った夢の超特急。それは「こだま」だった。その日強く印象に残っているのは、新大阪駅から走り始める際の規則的に奏でられる静かな走行音。精密機械のリズム。列車が最大速度に達するのを誇示する速度計の針を見たこと。速度計は車両の壁に掛け時計のように貼り付けられていた。最大速度に達し、密閉された車両内で僕の耳はツーンと鳴った。何度か唾を飲み込み、耳の機能の回復を待ちながら僕は思った。
「やっぱり僕の付けた名前がピッタリじゃないかな」忍者がクールジャパンのコンテンツに上げられる今、中年の僕は悔し紛れにまた同じ台詞を呟こうとする。

 

「私と新幹線」山口千賀志(静岡県)
 小学校3年生の時、学校から帰宅後、懐中電灯持参で小さなトンネルの前に4~5人の友人が集まった。身の丈2mくらいのトンネルの入り口に、ペダルを踏むと前後に動くトロッコがあった。誰が漕ぎ役だったか思い出せないが、暗黒のトンネルの奥に続く線路に向かって皆の懐中電灯の光が向けられた。
 後から知ったことだが、そのトンネルは戦前からあった弾丸列車(新幹線)構想の新丹那トンネルの試掘坑で、トンネルの西口が私の故郷、函南町である。
 100m進んだところで、「もう引き返そうよ!」と誰かが不安そうに言う声に、恐怖で一杯の全員が賛成して直ぐ引き返した。
 次の年から新丹那トンネルの工事が始まり、小学校には各学年に2~3人づつの転校生があり、町の人口も急に増加し村は町政に移行した。在来線の丹那トンネル工事が難工事だったこともあり、詳細なデータが次の工事に生かされ、工期は大幅に短縮し15年半掛かったものが4年余で終わった。実は私の祖父は在来線の丹那トンネル工事の函南口の嘱託医で、東京から赴任してきた。戦後父が同じ場所で開業し、昭和34年から始まった新丹那トンネル工事の嘱託医になった。
 トンネル工事の終了後、東海道新幹線開通まであと数か月という時期に、新丹那トンネルに行ってみようということになった。入り口には柵など無く、トンネル内に入ることができた。レールは未だ敷かれてはなかったが、その下の石は敷かれていた。函南口から熱海口までの距離7959m。よし、歩いてみよう!と3~4人で歩き始めたが、行けども行けども熱海口の明かりが見えず、30分ほど過ぎてからやっと視界の左下に米粒ほどの明かりが見えた時は、安心したと同時に溜息が出てしまった。1時間でやっと半分、あと1時間で熱海口。また同じ道を引き返すと考えると、気持ちが萎えてしまってそれ以上前進できなかった。
それから数か月後、こだま号に乗って新丹那トンネルを通過する機会があった。3分ほどのあっという間の出来事に、「えっ!たった3分!」と新幹線の速さを実感したのは当然だが、「このトンネルを歩いた経験の持ち主はそういないだろう!」と一人悦に入ったのを思い出す。

 

「走行中の新幹線車内で赤ちゃん誕生騒動」杉浦正明(愛知県)
 昭和48年3月24日、小学5年生だった私は、3学期の終業式を終え、祖母に連れられて、名古屋駅を15時頃発の「ひかり号」に乗車し、東京の叔母の家に向かっていました。すると浜松あたりを走行中に、「産気づいた妊婦がいるので産科医が乗り合わせていたら、申し出てほしい」といった内容の車内放送が入りました。その後、新幹線は急きょ、熱海に停車しました。その後のアナウンスで、妊婦は熱海駅から病院に向かい無事だったと放送が入った時には、車内に歓声が上がりました。子供だった私でも、嬉しい気持ちになった事を覚えています。
 後日、「乗車していた新幹線の車内で赤ちゃんが産まれた」と、家族や友人に自慢した事を記憶しています。実際には車内で産まれたわけではなかったんですが、、、。
 当時は、まだ新幹線が珍しく、乗車しただけでも友人に自慢できる時代でした。その後、何十回と新幹線に乗りましたが、この事が最大の思い出となっています。
 その赤ちゃんも、現在41才になります。どうしているのだろう。

 

「新幹線に寄せて」岩尾治郎(愛知県)
 今年は、東海道新幹線が開業して、五十年である。以前は、「十年一昔」という言葉があり、それによると五昔も前の話ということになる。長い年月である。
 開業時に比べ、運転本数は増加、速度は向上といった按配で、正確性と安全性を誇るいわゆる“新幹線神話”を脅かすと考えがちであるが、そんな話は薬にもしたくなく、むしろ、正確性も安全性も高くなっているというのが、公平無私な見方であると考える。これは、いかに、新幹線に携わる全ての人達の努力が、東京・新大阪間を走る、東海道新幹線の逞しい勇姿である、と思う。
 閑話休題、私が東海道新幹線に初めて乗ったのは、八才の夏であった。小学校三年生の夏休みで、岡山開業の直後である。おそらく父にねだったのだろう。
 父は前日に「明日、新幹線に乗せてやる。」と唐突に言った。案の定、嬉しくて眠れない。そんな楽しい一夜を過ごして、名古屋駅の16番線で、新幹線を待った。
 しばらくするとアナウンスがあり、憧れの新幹線(もちろん0系)が入ってきた。
 我先にと乗り込み、座席に座る。やがて発車、その時の感動と興奮を筆にするのは困難である。誰でもない、この自分が、今こうして新幹線に乗車しているのである。この感動―達成感のような―は、今でもはっきりと、記憶と身体が覚えている。
 長じて私は、国鉄に入社した。勿論、東海道新幹線の車掌になるためである。まず、駅員となった。深夜に便所掃除をしながら、いつか、東海道新幹線に乗務する姿を想像した。そして国鉄改革。JRになって、車掌試験があった。迷うことなく受験し、幸いなことに合格して在来線の車掌となり、九年間いろいろな列車に乗務した。
 ある日、車掌区長から「新幹線に乗るか」と話が出た。私はそれに飛び付いた。
 研修や講習を受け、ついに私は、東海道新幹線の車掌となった。
 初めて、乗務(0系)した時、ドアスイッチを“閉”にした。32枚のドアが閉まり、新幹線がゆっくりと動き始めた瞬間の感動と興奮は一生忘れない。それが、かつて初めて新幹線に乗った時に味わったそれと、同一であった。 

 

「私と新幹線」竹中賢一(大阪府)
 私は今年古稀を迎えた。私と新幹線の出会いは開業間もないもう50年前になる。
新幹線は大阪から東京への日帰りの旅を可能にし、JTB(日本交通公社)から、オリンピック終了後、東海道新幹線開通旅行商品として「日帰りで新東海道1000キロの旅」が発売され、新幹線に乗って時速200㎞を体験し、興奮冷めやらぬオリンピック競技場巡りもできるといった目玉商品のためか、好評で連日、大勢のお客さんが参加された(個人の会員旅行の先駆け)。
当時、大学2年であった私は、旅行好きの友人の紹介でJTBの修学旅行など団体旅行の添乗アルバイトをしていた。新幹線記念旅行商品発売に伴い、JTB関西支社販売課で新幹線記念旅行の添乗をすることになった。連日、朝6時に新大阪駅団体待合室で受付を行い、7時発「超特急ひかり4号(4A)」に乗り込んでいた。お客様は毎回50人、個人参加のお客様(2~3人グループもあり)がほとんどで、受付段階で顔と名前をしっかり頭に入れていた(若かった事もあり、ほとんど顔と名前を覚えていた→このことが、あとで役立つことになる)。なかには当日受付段階で急に欠席されるお客様もあり、発車時刻30分前では特急料金の払い戻しができないことから、個札といって添乗員用に団体乗車券とは別に乗車券を持っているときは、JR(国鉄)の職員が「窓口でキャンセル待ちのお客様がいるので、その方に譲ってあげて欲しい」という場面もあるくらい、座席を取るのが大変だった。
 日帰りで新東海道1000キロの旅の旅程は次の通りであった。
新大阪駅発(7:00)―超特急ひかり4A―東京駅着(11:00)―浜松町(モノレール)―羽田(羽田東急ホテル―ランチ)―高速1・4号線―選手村・代々木屋内総合競技場―国立競技場(入場)―ホテルニューオータニ・スカイラウンジ(喫茶)―東京駅発(18:00)―超特急ひかり23A(お祝い弁当―夕食)―新大阪駅着(22:00)
 新幹線の車中では、「只今 列車はスピード200㎞を超え最高速度210㎞で運転しています」「列車はちょうど中間点の浜名湖の鉄橋を通過中です」、富士川の鉄橋では「車窓左手に富士山が美しく見えております」等々の案内のたびに、「ワー 凄い!」「もう浜名湖まで来たんだ、早いな!」「富士山をこんなに近くで見たのは初めて!」車内は沸いた。列車にはビュッフェがついていて、窓側には椅子で、中側は立って軽食を食べることができる。日本食堂や帝国ホテルのコックがつくっていたと記憶している。また、ビュッフェにはスピードメーターが付いていて、列車の現在のスピードを知ることができた。スピード感溢れる車窓を眺める旅を楽しめた。私もよくビュッフェにも立ち寄ったが、何せアルバイト添乗の身、メニューの中で一番安いトマトジュースを注文してその雰囲気を味わった。
 この旅行の目玉の一つがつい先日までオリンピックが行われた国立競技場に入れたことであった。閉会式後入場できたのは、創価学会の大会のほかはJTBのこの観光客だけであった。また、オリンピックの機会にできた東京モノレール(地上高いところで25mを走る)、首都高速道路(以前、川であったところや、道路幅を広げ家が立ち退きしたようなところもあった)、飛行場が一望できる羽田東急ホテル、1時間に一周するホテルニューオータニのスカイラウンジ等々目新しいものがいっぱいであった。
 旅の楽しみは、そんな目新しいものを見る観光と共に、お土産もの買いがあった。18:00発の新幹線発車までの間、八重洲地下街でお土産を買ってもらう時間を設けた。それまでは団体で行動していたが、この時間帯は個人で動くことになる。再集合場所である八重洲南口に時間になっても帰ってこないお客さんがたまに出てくる。新幹線の出発は18:00、おそろいのお客さんはJTB東京支社のラナーさんにホームまで誘導をお願いして、私は八重洲の地下街の雑踏の中、お客さんを探しに走る。必死である。朝から覚えているお客さんの顔がそこにあるとほっとしてホームへご案内という一幕もあり、スリル溢れる出発進行も何度かあった。
 夕闇迫る東京の街を車窓から眺め、名古屋・京都を過ぎ、4時間もすると新大阪に到着である。鳥飼の新幹線基地は、あと5分で新大阪に到着する目処の場所である。1車両全てJTBのお客さんであることから、車両の前に立ち、「あと5分ほどで新大阪に到着いたします。本日は早朝より交通公社の新幹線開通記念旅行―日帰りで新東海道1000キロの旅―にご参加いただきまして誠に有難うございました。皆さんお楽しみいただけましたでしょうか?200㎞のスピード、秀麗なる富士の姿、首都高速道路(このときの観光バスは、「はとバス」)とモノレールでのオリンピック競技場巡り、そしていいお天気、楽しい旅仲間等々ご家族・ご友人に語れる旅の土産話いっぱいではなかったかと存じます。こうして無事大阪へ戻ることができましたのも、皆さんのご協力の賜物と厚く御礼を申し上げます。途中、何かと不行き届きのところがあったかと存じますが、これに懲りずに今後とも「往きの安心感、帰りの満足感」の日本交通公社をご利用賜りますようお願い申し上げます。―割れんばかりの拍手をいただく「楽しかったよ、お疲れさん」―身に余る拍手ありがとうございます。それでは間もなく新大阪に到着いたします。お忘れ物のないよう、そしてご自宅までお気をつけてお帰りください。有難うございました」と挨拶を終えると、ドット疲れがでてくるが、皆さんからの先程の拍手がそれらの疲れを吹っ飛ばすには十分すぎるものがあり、「ヨォッシまた明日もやるぞ!」と1000キロの旅の一日が終わる。
 東海道新幹線が日本・日本人の高度経済成長の夢を乗せて駆け抜けた良き時代であった。

 

■JR東海の東海道新幹線50周年特設サイト
http://shinkansen50.jp/

■「私と新幹線」写真とエッセイ・コンテスト受賞作品発表
https://serai.jp/tour/12603

写真部門 佳作作品の紹介ページ
https://serai.jp/tour/19366

写真部門 入選作品の紹介ページ
https://serai.jp/tour/19545

エッセイ部門 入選作品の紹介ページ
https://serai.jp/tour/19574

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