東海道新幹線開業50周年×『サライ』創刊25周年記念共同企画
「私と新幹線」写真とエッセイ・コンテスト受賞作品発表
昨年10月1日に開業50周年という節目を迎え、新たな一歩を踏み出した東海道新幹線。創刊25周年を迎えた『サライ』では、JR東海とともに「東海道新幹線開業50周年×『サライ』創刊25周年記念共同企画『私と新幹線』写真とエッセイ・コンテスト」を実施しました。『サライ』11月号(2014年10月10日発売)の誌面と過去の記事に続き、エッセイ部門 入選の作品をご紹介します。
※基本的には、ご応募いただいたエッセイをそのまま掲載しています。時間の表現(◯年前、今年◯歳など)は、作品をご応募いただいた2014年8月31日時点のものです。
「私と新幹線」写真とエッセイ・コンテストエッセイ部門 入選
大澤真奈美(埼玉県)「3人座席」
新幹線の3席並びの座席が嫌いだった。
東海道新幹線の利用は100%観光旅行のため、新幹線は異世界へ連れて行ってくれる乗り物でもあるのだ。それなのに、修学旅行では「奇数」ということで、座席決めも難航した。なんといっても私が高校生当時の新幹線は、3席の座席は回転して相向かいにすることができなかったのだ。かなりもめたのを覚えている。
恋人との旅行、予約のタイミングか取れたのは3席の方の指定席。恋人ではない知らない人とも隣り合わせた。夢へのの始まりを、全く考えてくれない。輸送力強化重視で、不便としか思えない配列だった。
結婚し、子どもを授かった。大切な一人息子だ。3人家族の旅行になった。
不便としか思えなかった3席並びが、大切な家族の空間に変化したのだ。大抵の特急列車は2席ずつの配列になっている。3人だと通路を挟んで座ることになる。でも、新幹線なら1列を家族で占領できる。幼い子連れでの周りへの気遣いも少なく済んだ。何より息子は、新幹線の中で機嫌が悪いことがなかったのだ。新幹線の旅は、とてもリラックスした、親子水いらずの濃密なつながりを楽しめるものになった。
立場が変わると、ものの見方も変わるものだ。子どもはいつか独立し、また、夫婦2人の旅に戻る。それまでは3人で並べる座席を楽しもうと思う。
織戸勝彦(千葉県)「車販アルバイトの思い出」
鉄道の近くでアルバイトがしたい!
そう思っていた大学時代、当時の日本食堂の車販アルバイトで東海道新幹線に乗っていた時期がありました。時は国鉄からJRになる直前、まだ100系が物珍しかったころです。
0系16両編成全長400mの車内を時にワゴンでお土産を売り、当時はバブル真っ只中でしたから、特に金曜の下りは目の回るような忙しさ。パワフルなお父さんたちの飲みっぷりに圧倒されっぱなしの道中でした。
ある時デッキで一息ついていた発車間際、発車ベルとともに駆け込んできた乗客。小さなお子さんを抱えた大荷物のお母さんでした。思わず労いの言葉をかけると、階段を駆け上がってきたであろう疲れも何処へやら、満面の笑みを返してくれたことを今でも思い出します。
あの時代は、お父さんもお母さんもすごいパワフルだった・・・。
新幹線で車販の方たちを見ると、今でも思わず当時の光景を思い出してしまいます。
中山恵子(東京都)「新幹線と私の五十年」
昭和三十年代、当時品川区西大井に建つ五階建てのアパートの四階の部屋のベランダからは新幹線が走るのがよく見えた。
小学三年生の時にいつも見ていた品鶴線(品川と鶴見の間を走る路線)の上を走る新幹線の絵を描いて金賞を受賞し、当時の国鉄からご褒美として新幹線に乗せてもらい大阪まで行ったことがある。まだ乗った人がほとんどいない頃で羨ましがられた。
中学三年の時に父が急死してしまったので両親の故郷でもある滋賀県に引っ越した。
その引越しの日、新幹線で発車を待っていたら、私の乗る新幹線がどれか分からずホームを走りながら私の座っている所の窓を見つけ、窓ガラスをたたいて知らせてくれた友人達。窓が開かないので手を振るのが精一杯。間に合って良かったが涙が止まらなかった。その友人達とは今でも続いている。
引っ越し先の滋賀県草津市は交通の要所で東海道新幹線、東海道本線、国道一号線、名神高速が通っている。だから新幹線も目にすることが多く、父のお墓も偶然新幹線の近くに作られた霊園にある。
その後、東京方面に遊びに行くときは新幹線を使い、結婚をしてまた東京に住むことになったので、里帰りをする時は必ず新幹線に乗っている。
東京から乗ると昔住んでいた品川のアパートや通っていた小学校が右手に見え、そこを通り過ぎるまで落ち着かない。また米原を過ぎるといよいよ滋賀県に入る。彦根城や草津駅前のよく行っていたスーパー平和堂のネオンがまだ高層マンションに囲まれながらも見え、その後すぐ実家の近くにあるゴルフの打ちっぱなしの大きいネットが見えたりすると、もうすぐ一人暮らしをしている母に会える気持ちでワクワクしたものだ。
今年その母も亡くなってしまったが、新幹線が京都駅に着くとホッとする。
村松京子(東京都)「ひかりとともに過ごした私の青春」
国鉄からJRに変わった昭和62年頃、当時の私は大阪にいる彼と遠距離恋愛をしていました。まだ携帯電話などない時代で遠く離れた彼との連絡手段は電話か手紙くらいしかなく、筆不精の彼からの手紙はほとんど期待できず、電話といっても電話料金が気になりゆっくりと話すことなどあまりできず、すべては1ヶ月に1度くらいで会えるひと時だけが唯一のお互いをつなぐ時間でした。
JR東海のCMで「山下達郎」の『クリスマス・イブ』の曲が流れ、まさに今の私にぴったりと思ったものでした。
彼が東京に来るときには、少しでも早く会いたいと新幹線のホームにあがって、入線してくる「100系ひかり」を待つときのあの最高のときめきは今でも忘れられません。会えることよりも彼が乗っているひかり号の赤いほっぺが見えたときの感動のほうが強かったように思えます。
私が大阪へ行ったときは必ず最終の21時に「ひかり」で帰ってきました。発車ベルが鳴り響くホームでドア越しに別れを惜しみ、車掌さんに「離れてください」と声をかけられて、新幹線から下がる彼と涙ながらに別れるのが定番でした。窓側の座席に座って車窓から流れる暗い景色をながめ、彼との思い出に浸りながら京都を過ぎるくらいまで涙を流していました。私の涙が乾くのを見計らってから車掌さんは検札にきてくれたこともありました。車掌さんの心遣いにありがたく思ったものです。
そして品川を過ぎたあたりにオルゴール音の「鉄道唱歌」が流れ東京タワーが見えると、到着を知らせる車内放送が流れ「ああ、東京に帰ってきたんだな」と実感し、やっぱり私は東京が一番好きだと改めて感じたりもしました。
その後数年、彼とこの遠距離恋愛が続き新幹線もいつしか「300系」が走るようになり、今では「N700系のぞみ」が主流で東京―新大阪間を2時間半を切って結ぶようになり時代の成長を感じています。
彼との仲は「300系のぞみ」が走る頃に終わってしまいましたが、全国を走っている数ある新幹線の中で東海道新幹線が何よりも大好きで愛着があります。
子どもの名前は「こだま」と「ひかり」にしようと思ったこともありました。
東海道新幹線を見るたび乗るたびに当時の胸のときめきや切なさを思い出します。
今では旅行で新幹線を利用するくらいで乗る機会が減ってしまいましたが、東海道新幹線が私の青春のすべてといっても過言ではありません。
榊原玲子(神奈川県)「初めての乗車」
“うわぁーっ”というどよめきの声、同時にわきおこった拍手の音。テレビで何度も見た丸い鼻の車両が入線してきた。
今から四十年前、私は当時高校二年生。修学旅行で京都方面に行くため東京駅のホームにいた。福島の小さな町に住んでいた私はふだん電車に乗ることはほとんどなかった。ローカル線に乗ることさえ非日常だったのだ。友人も家族も同様だった。
それが“新幹線”である。喚声も拍手も期せずしておこったものだが、それだけ皆興奮していたのであろう。乗車してからも窓に額をくっつけるようにして外を眺めていた。そして友と何度言い合ったことであろう。「早いね」「早いね」・・・。生で富士山を見たのも初めてのことだった。まさしく全員が見つめた。そしてまたもや拍手。
三泊四日の修学旅行、京都の寺社仏閣を巡り、記念写真が残っているので琵琶湖も尋ねたようだが記憶はあいまいである。しかし、新幹線が私たちの前に姿を現した一瞬は友の紅潮した顔とともに今も鮮やかによみがえる。
下村美咲(愛知県)「母に会いに」
早く東京から離れたかった。乱立する高層ビルや、足早に行き交う人たちを見たくなかった。こんなにたくさんの会社があり、こんなにたくさんの人が仕事に追われている大都会で、ひとつの内定も得られない自分はなんなのだろう。何をしに上京したのだったか。考える代わりにかばんをぎゅっと抱きかかえたとき、下りののぞみのドアが開いた。
平日の昼間の自由席は空いていた。2号車後方、進行方向右の窓側に席をとる。近頃の癖でスーツ姿の人に目がいく。まばらに座っているのは、車内でのひとりの過ごし方を知っているサラリーマン。皆同じような格好で数人で話しているのは就活生。リクルートスーツに身を包んだ学生達は、発車すると窓の外のビルをあれこれ指して「ここの会社受けてるとこ」「ここの面接はスベった」と盛り上がりはじめた。その新聞社はわたしも受けた、と心の中で応え、でも落ちた、と付け足してその話を聞くのをやめた。あんなに楽しそうに笑えるのは既に内定が出ているからだと決めつける。いいな、と素直に思う余裕がない。早く。早く違う景色が見たいのに。待ちきれずにわたしは目を閉じた。
しばらくたち、加速度があがるのを感じて目をあけた。走る音で就活生のおしゃべりが気にならない。もうとっくに新横浜を出ていた。街はずっとつながっているけれど、背景が違う。山が見える。そびえたつビル群はもう置いてきぼりだ。ものすごい速さで東京が離れて行き、地元の街が近づいてくる。景色を眺めていると、だんだん富士山が見えてきた。頂上までくっきり見える。すべてがビュンビュン通り過ぎるのに富士山だけはゆっくり遠ざかる。 いま帰ったところで、何かが変わるわけでもない。2日後には大学の授業が始まるし、先の見えない就職活動も続く。けれど、試験に落ちたことで急にできてしまった時間をひとりで過ごすのは耐えられなかったし、かといって、順調な友達に会うことも考えられなかった。
メロディが流れ、アナウンスが続く。電光掲示板に駅名が出る。新幹線はまだ郊外を走っているが、そそくさとかばんを取って席を立った。徐々に集合住宅が増え、オフィスビルや大きな看板が次々とあらわれる。都会だけど、1時間半前に見たものに比べればまったく迫力のない、生まれ育った街の見慣れた景色だ。ホームに滑り込むまで、窓の外をずっと見ていた。
のぞみを降りて、空気を吸い込んだ。4月の名古屋は、東京よりもう少し暖かい。息をするのも苦しいくらいの心が、いくぶん軽くなったような気がした。
髙須義江(愛知県)「私と新幹線」
夢の超特急新幹線こだま号にワクワクしながら、豊橋駅から乗ったのもつかの間、自分たちの席がない??「どうしたの?アレレレ・・」
今から丁度50年前の11月1日大安吉日に結婚式を挙げ、新婚旅行に京都までの予定で乗り込んだ車内は新婚さんで満員だった。全席指定の切符もあり、私達の席もちゃんとあるはずだった。切符の指定場所には他のカップルが座っていた。「済みません?そこの席は僕達の席ですが・・?」言うが早いか「ここは私達の席ですけど」・・・「あなた方の切符を見せてください」と言われて主人がポケットから切符を取り出して見せたら「この切符は一列車前のですよ」と言うではありませんか?そういえば、披露宴が延長すると困るからと、一列車後の新幹線にして貰ったはずでした。
私は主人に攻め心を出して、「どうして切符の確認をしてくれなかったの?」と口に出して言いそうでした。
一瞬頭がパニックになってしまいました。どうして?こんなことになったのか?兎に角12号車まで車掌さんを探しに行って、どこか空いている席はないか?と聞く事にしましたが、満席ですという事でしたので、トボトボ5号車まで引き返す途中で2席空いていましたので、取り敢えずその席に座らせて頂く事にしました。
暫くすると名古屋駅に着き、二人の男性の方が乗り込んできました。お二人がキョロキョロしているので立ちかけると「何だ、国鉄は切符を二重売りしたのか?」と言うので、慌てて「いいえ、私達が列車を間違えてしまい、席が無かったのでここに座らせてもらいました」「ごめんなさい」と言いながら、立ち上がると「お宅たち、新婚さん?」「どこまでいくの?」「京都まで」というと「じゃあ!京都までそのまま座って行って下さい」「僕たちは京都まで食堂車に行っていますから」と優しいお言葉に甘えさせていただき無事京都に着きました。
今年は結婚50周年記念です。ここまでには山坂色々ありましたが無事ここまで来られたのは、あの新婚旅行で席を譲って下さったお二人のお蔭と心より感謝です!新幹線に乗るたびに思い出します。ありがとう!の心を。
長坂充代(愛知県)「私と新幹線」
最近70歳を超えた母が、娘の私を目の前にして、ちょっと遠いところを見つめながら、懐かしそうに、また寂しそうに「充ちゃんが使っていたあのお弁当箱、引越しの時捨ててしまったのかな。大事にしておいてあげなくて、ゴメンね~」とよく口にする。私は東海道新幹線誕生と同じ、50歳。その私が幼稚園に持参していたお弁当箱が存在していなくても当たり前のことで、母のことを悪いと思う人は、誰もいないだろう。それなのに懐かしいアルミ製のお弁当箱がないことに後悔している母。それを昭和の思い出として残しておきたかっただけでなく、もう一つ理由がある。私は、一姫二太郎の長女で、祖母と両親が“女の子らしく”おしとやかで優しく育つように、愛情注いでくれていた。私が幼稚園へ入園の準備に必要なお弁当箱を百貨店に選びに出掛けた時のことを母は何度も話してくれた。母はお人形やお花の図柄が蓋に描いてあるものを私に薦めた。「普段は物静かな充ちゃんが、どうしても新幹線の絵が描いてある方がいい!と主張してね。男の子っぽい乗り物のを買ったのよ。あの時、自分で決めたものを買ってあげて本当に良かった…と今は思う。三年間風邪もひかず喜んで使っていたのよ」私にとっても思入れの深い物でしたが、今となっては『新米ママが初めて子供のお弁当箱を買った時の出来事』が母の宝物のような存在になっている。現在私は新幹線『こまち』のお弁当箱と、N700系の箸を使い職場で昼食を摂る。
水谷由起子(愛知県)「新幹線を見た日」
新幹線が開業した時、私は名古屋駅の西にある米野小学校の3年生だった。
当時、高度経済成長真っ最中の世の中で、小学校は木造校舎から鉄筋校舎への立て替えラッシュだった。児童数も多く、教室が足りなくて、図書室が教室になっていた。そこが私の教室だった。その部屋は東に大きな窓があり、そこから新幹線の高架線路が見えるのだった。今ではビルや住宅が建て込んでまったく見えないのだけれど。
50年前、新幹線が開業した日はテストの日であった。ガリ版で刷られたテスト用紙の最後には、
「今日は東海道新幹線の開業日です」という言葉が印刷されていた。担任の先生としても新幹線の開業という国家的イベントを書かずにいられなかったのだろう。
教室の窓から新幹線の姿を見たとき、3年生の私たちは、だれに言われるでもなく、「ばんざい!」と叫んでいた。
新幹線開業当時、名古屋駅の新幹線側は「駅裏」と呼ばれ、バラック・裸電球・露店が立ち並ぶ、小学生にはちょっとこわい場所であった。
そんな戦後の面影残る「駅裏」も大手予備校が進出し、地下街のエスカが開業し、あれよこれよという間に清楚な「駅西」(太閤口)になっていった。それと同時に、バンザイをした私たちが、ごく気軽に新幹線を利用するようになっていったのだった。
村山令男(愛知県)「『いい夫婦』に一日及ばず」
私たちの結婚挙式は東海道新幹線開業から三年余を経た昭和四十二年十二月二十一日。
その翌日、新たな人生に夢と望みを抱き名古屋駅から「ひかり号」に乗車、奥日光湯元温泉・鬼怒川温泉への旅に出ました。「のぞみ号」の登場はさらに時流れて平成四年のこと。
身内から贈られたブーケでそれと分かった方々の祝福を受けつつ束の間の東京到着でした。日光を旅先に選んだのには次の理由が。
幼少期は極度の車酔いに悩まされ乗り物利用の遠足、旅行はすべて欠席。
高校生時の修学旅行先は日光・鎌倉・江の島、未だ新幹線は無く長い乗車時間を懸念しつつ一大決心の上参加。案の定発車直後から車酔いに見舞われ岐阜県から東京経由日光までの道中が長く辛かった。ダメ押しはバスに揺られたイロハ坂。華厳の滝も東照宮・陽明門も一切観ることなく宿でダウン。
激励の意も込めた教諭、同僚の言葉「車酔いをしていては新婚旅行にも行けんゾ」が妙に脳裏に残り新婚旅行でリベンジを図ることに。
妻と二人で晩秋初冬の日光路を満喫堪能し「結構!!」と言える資格?も得ました。
あれから四十七年の歳月が流れ、リニア新幹線の営業運転も現実味を帯びてきました。
一九八八年には十一月二十二日を「いい夫婦の日」と制定。金婚式間近の今、妻の顔に視線を向けつつ「いい夫婦」と言い難いのは一日前が挙式日であったためか・・・。
北村佳治(滋賀県)「新幹線と半世紀(私と新幹線)」
私と新幹線との出会いは約50年前に遡ります。当時は高校3年生で、国鉄に就職が内定し希望に満ちた頃でした。10月の東海道新幹線の開業を控えて、連日のように行われている「試運転電車」を撮影するために自転車を漕ぎ13キロも離れた路線の傍まで行ったものでした。路線際で数時間も待ったけれど、試運転電車はやって来ない事もあり、がっかりしながら重い足取りで帰ったことが昨日の事のように思い出されます。幼い頃から鉄道にあこがれ、新幹線で仕事をするという想いが強かったので国鉄入社を決めました。
駅の仕事を経験した後、車掌になったものの貨物列車の業務。しかし、「いつかは新幹線」の夢をあきらめずにいました。この間、新幹線は「ひかりは西へ」と延伸し、岡山開業、博多開業へと伸び続けました。昭和50年、新幹線は博多開業の日を迎えました。当時は、貨物列車の車掌でしたが新幹線博多開業に多くの車掌が必要とのことで、高校時代からの夢が叶い、念願の新幹線車掌になりました。その後、国鉄からJR(東海)となり、新幹線車両も「0系・100系・300系・500系」と変わりましたが、新幹線車掌として乗務しました。その間、お召し列車の乗務や300系初列車の乗務は、「私と新幹線」の中で忘れることができません。今は乗務を降りて15年経ちますが、今も京都駅構内で新幹線にかかわる仕事をしています。
来年は、初めて新幹線と出会い、国鉄に就職してから半世紀を迎えます。職場では新幹線の走る音を聞きながら、仕事を離れると風景の中を走る新幹線の撮影と、日々忙しい時を過ごしています。「私と新幹線」高校生の時に初めて見た新幹線。新幹線に乗務するため入社した国鉄。来年私は、50年目の記念の年を迎えます。新幹線に係わったことに感謝しつつ、その日を心待ちにしています。
宮井大輔(奈良県)「なぜか いつもと違う日」
「あれ、今日は駅弁買わないんだな、どうしたんだろ」
小学四年の夏休み、広島にある母の実家へ帰省する時のことだった。京都駅から家族で新幹線に乗車する時、父はいつも萩の家の幕の内弁当を家族分買うはずなのが、ホームに直行することになった。
「パパ、今日はどうしたの?」「いいから、もうすぐしたらみんなのお楽しみがあるから」要領の得ない回答に何か意味深さを感じた。でも肝心の新幹線ひかり号はまだ京都駅のホームに入線していない。一分一分が経過するたび気になる始末。乗車するひかり号・広島行が入線して来た。ドアが開き車内へ入った。母に座席上の網棚へリュックを置いてもらった。弟は嬉しげな表情。
そんな時だった。親父が言った。「みんな、食堂車行かないか?」何と、今いる7号車の隣の号車ではないか。京都駅を出てすぐに家族一同で食堂車へ直行。時間はお昼をとうに過ぎていた。生まれて初めての食堂車だった。
窓側に着席し、ハンバーグ、カレー、ビーフシチューなどを注文し、家族4人でシェアして食べることになった。外の景色がどんどん移り変わるところにインパクトを感じた。しかも、熱々なハンバーグの味が今も忘れられない思い出になった。柔らかく美味しかったことも、「食堂車」という世界を現実体験したことも。両親も弟も嬉しさ一杯の表情だったことも含めて。別盛りなカレーや落ち着いた色調の内装も、ちょっと上品な空間に感じた。私にとって、食堂車という言葉を耳にするたびに、その時実感したワクワク感を今でも思い出す。正に憧れの場所だったかもしれない。
もし、新幹線に食堂車が帰って来るようなことがあるならば、その時はぜひ足を運びたい。今度は富士山観ながら両親共々料理を味わう、ってことが出来たら最高なのは間違いないだろうか。
安藤知明(大阪府)「アフリカで新幹線談義」
昭和四十三年、私は青年海外協力隊に参加し、東アフリカに派遣されていた。植民地時代にイギリスが敷いた古い鉄道が通っていたが、パンクチュアルでないこともあって乗ったことはなかった。
ある日、打ち合わせのため役所を訪れると、「新幹線はお元気ですか?」と声をかけられた。あまりにも突飛な質問に戸惑っていると、「ホラ、東京・大阪間を四時間ほどでつなぐ超高速鉄道ですよ」とつけ加えた。
つい一年ほど前までは、出張やプライベートで月に二、三度はお世話になっていた新幹線。なんとも懐かしい。
「日本は世界銀行からお金を借りて、あの新幹線を作ったのです。私はここにくる前、ワシントンD.C.の世界銀行本部にいたんです」
男性は事も無げに言っていたが、聞いてびっくり。オリンピック開催に向け、当時の日本はインフラ整備に莫大な資金が必要であった。それで、世銀から借金したのが事の真相であった。
「全然知らなかったです。貴重な情報を有難うございます」
多分、友人たちも知らないだろう。帰国したら話題を提供して大いに盛り上がろうと思った。
「もう一つおまけ」と言って、男性が話してくれたことも興味深かった。新幹線は、それまでの世界の鉄道運営の常識を破って、人だけしか運ばない。慣れっこになっていたので、言われてみるまでは気づかなかった。確かに、新幹線出現以前の鉄道は貨物も運んでいた。
日本以上に新幹線の「裏事情」に詳しい男性に、それも日本から一万キロは離れていると思われる東アフリカで出会えたことで、びっくりするやら嬉しいやら。
アフリカでの経験や新幹線に関する貴重な情報を携えて帰国したのは、昭和四六年だった。それ以来、この「新幹線」ネタは幾度となく使わせてもらっている。
実村仁美(岡山県)「小さな小さな楽しみ」
「お母さん、早く!黄色の黄色の」「わっ、黄色じゃ」リビングで昼食をとっていた子ども二人が大声で呼んだ。あわてて見に行く私。最後の一両の半分だけ見えた。ドクターイエローだ。「今日、学校休みでラッキーだったな僕ら」高校三年生の男子には、嬉しいことだったらしい。私の方は、嬉しさ半分だ。それでも駅に近いため、スピードもゆっくりになっていたからラッキーと言える。
今年の四月に四国から岡山に来た。転勤族の我が家だが、新幹線が見える所に住むのは初めてだ。この引越しは、引越し前に主人が体調を崩して入院。部屋決めから引越し作業のほとんどをひとりでやらなければならなかった。そんな中でのドクターイエロー。この半年ほどの出来事を思い、頑張ったからいいことがあった―と、私に思わせてくれた。
もう一度見たい!と思っていた。すると意外に早くチャンスが来た。それも前回の目撃から十日ほどでだ。今度は、全車両見えた。一日に何十本と新幹線が家の前を通過する。でも、ここに越して来なければ、あの黄色の車両を一生見ることはなかったろう。
旅行や仕事、車中の人も外から車両を眺めているだけの人も、人々の様々な思いをのせて新幹線は今日も走る。思いがけない車両の目撃は、日々のどんよりとした気持ちを前向きにしてくれた。また見えるかも……平凡な日常に、ささやかな楽しみを与えてくれている。
飯川雅弘(宮崎県)「九州宮崎から東京へ」
私は昭和31年生まれで、今年58才になります。九州の宮崎県で生まれ、高校生の頃なんとなく東京に憧れ、漠然と東京の大学へ進学したいと考えていました。しかし、当時は受験で東京へ行くだけでも一苦労、寝台特急「富士」に乗り、神経質な私はほとんど眠れないまま東京へ着いて受験でした。やっと大学生になっても、高くて飛行機に乗ることはできず、常に「富士」を使っていました。
そんな時、同じ東京に住んでいた高校の同窓生が「新幹線」を使えば、小倉で乗り換えてその日のうちに宮崎へ帰れると教えてくれました。夏休みにバイトをして貯めたお金で初めて新幹線で帰省しましたが、「すべるように」という言葉がぴったりの走りや、揺れのないきれいな車内、美しい車内販売の女性達、車窓から見えた本当に美しかった「富士山」など今でもはっきりと覚えています。
そして大学を卒業する時、学生時代から付き合っていた東京の女性を嫁にもらい、彼女は東京から新幹線で小倉まで来て、そこから日豊本線で宮崎まで来ました。小倉までは明るくきれいな新幹線に乗っていたのに、日豊本線に乗り換えた途端、夜だったせいも有り、暗い闇の中をずっと走っていて寂しかったことを今でも覚えていて、子供たちにもよく話しています。もう35年も前の話です。
■JR東海の東海道新幹線50周年特設サイト
http://shinkansen50.jp/
■「私と新幹線」写真とエッセイ・コンテスト受賞作品発表
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