文/澤田真一
徳川家康が「鎖国」を完成させた、という誤解が未だにある。だが現実の家康は、むしろ対外貿易“推進”論者だった。
豊臣秀吉の大陸進出以来、途絶えていた明国との交易を、家康は自身が存命のうちに何とか復活させた。そのために琉球王国の独立を形式上だが維持させたほどだ。
対ヨーロッパ交易についても積極的だった。家康はイギリスとスペインの両方を股にかけようとしていた。当時のイギリスとスペインは、戦争まで繰り広げた敵同士である。家康はそれを知った上で、大胆な外交政策を展開していた。
そんな最中、スペインの船が千葉沖で難破するということがあった。家康は乗組員たちを手厚く保護するだけでなく、帰国のための船まで造らせた。当時のスペイン国王はその礼として、1台の機械式置き時計を家康に贈ったのだ。
16世紀末にマドリードで製造された置き時計。ドーム型天井の塔を連想させるデザインだが、これが革のケースとともに、今も静岡市の久能山東照宮に保管されている。
この時計をめぐる消息については、久能山東照宮の宮司である落合偉洲氏の著書『家康公の時計 四百年を越えた奇跡』に、詳しいことが書かれているが、16世紀の時計が、当時の部品を有したまま現代に残っているというのは、まさに奇跡というほかない。
機械である以上、普通なら部品交換を繰り返すものだが、久能山の時計は家康の死後「東照権現様のご遺品」ということで封印されたため、結果的に世界工業史にとって非常に重要なこの逸品を現代に伝えることになったのだ。
去る2017年4月7日、天皇皇后両陛下とスペイン国王夫妻は、静岡市で最も有名な料亭『浮月楼』でその時計をご覧になった。この日のために、久能山東照宮から浮月楼へ時計が輸送されたのだ。
日本人の蒐集癖は、世界の学者を驚愕させることが多々ある。正倉院宝物もそうだが、原産国ではとうに失われたものがなぜか日本にあるという現象が、頻繁に見受けられる。
静岡市と久能山東照宮は、家康の時計の分解調査に大英博物館から調査員を呼んでいる。もはやこの話は、静岡市だけのローカルニュースではないのだ。
日本の戦国時代は、否が応でも「国際化」を要求された時期でもあった。だから、北条早雲が生きていた頃と関ヶ原合戦の頃とでは景色がまったく違う。海外交易に積極的な大名だけが生き残り、そうでない者は滅んでいった。家康はもちろん、前者である。
とくに関ヶ原から大坂の陣までの間に、家康は西洋諸国との結びつきを強化しようとした。その中でオランダだけが対日貿易を続けた理由は、宗教政策に絡む事情もあるが、つまるところオランダ以外の国が日本への航路を諦めたからに過ぎない。
スペインはカリブ海地域の植民地経営に重点を置くようになり、イギリスはエリザベス1世死後、海賊の出現に頭を悩ませることになる。17世紀ヨーロッパの中で、常にアジアを見ていた国はオランダだけだったのだ。
家康はその事情を知ることなく、この世を去った。その後の江戸幕府は例の時計のことなど完全に忘れ、オランダのみとの対欧貿易も「権現様の遺訓」ということになり、そのまま19世紀中葉まで同一の外交路線を採用し続けることになる。
「鎖国」は、この家康の置き時計の封印から始まった、とも言えるのだ。
【訪ねてみたい】
『久能山東照宮博物館』
■住所:静岡県静岡市駿河区根古屋390
■電話番号:054-237-2438 (久能山東照宮社務所)
■ウェブサイト:http://www.toshogu.or.jp/kt_museum/
■開館時間:9時~17時(入館は16:45まで)
■休館日:無休
■料金:大人400円 小人150円 小学生未満無料
【参考文献】
『家康公の時計 四百年を越えた奇跡』
(落合偉洲著、1,600円+税、平凡社)
http://www.heibonsha.co.jp/book/b158615.html
取材・文・写真/澤田真一
フリーライター。静岡県静岡市出身。各メディアで経済情報、日本文化、最先端テクノロジーに関する記事を執筆している。