談/星野佳路(星野リゾート代表)
2015年7月に、京都と滋賀の県境、比叡山山中にある『星野リゾート ロテルド比叡』がリブランドし、星野リゾートが手掛けるオーベルジュとして生まれ変わりました。
オーベルジュとは、宿泊設備を備えたレストランのことです。料理を中心に1泊2食の滞在をする。そのためにお客様がいらしてくださる、そして我々提供する側も、そのことに集中しておもてなしをする。
さまざまなニーズがあるリゾート施設に比べるととてもシンプルに、料理を中心とした滞在の素晴らしさを感じていただける施設だと思っています。
オーベルジュの良いところは、食後、帰りの心配をしなくてもすぐに休める場所があるということです。食事プラス滞在という、旅の時間をどう過ごしていただくかが、とても大切だと思っています。それがレストランとの違いなのです。
■魅力的なオーベルジュの条件
私は海外でのオーベルジュ滞在の経験から考えてみますと、魅力的なオーベルジュの条件とは、テーマがある滞在を提供できることだと思っています。
例えばフランスの田舎の古民家のような佇まいのオーベルジュで、新鮮な農園の野菜をたっぷり使った美食を味わう、というような。ですから、京都と滋賀の間、比叡山にあるこの施設をどのような位置づけにすべきかを考えたときに、“京都を捨てる”ことを決心ました。
巨大な集客をもつ京都のオーベルジュと言ったほうが、お客様にはわかりやすいのかもしれません。しかしあえて京都ではないこの近江という立地を活かし、比叡山延暦寺やその門前町として栄えた坂本、琵琶湖という豊潤な恵みをもたらす湖などの魅力を発信したいと思ったのです。
料理はもちろんですが、まず取り組んだのが、地域との連携です。延暦寺の皆さんとはいろいろとお話をさせていただきました。世界文化遺産である延暦寺は、総本堂である国宝の根本中堂がある東塔、西塔、横川の3エリアで構成されています。
延暦寺には1200年以上の歴史と、比叡山という豊かな自然、そして国宝の根本中堂をはじめとする数々の歴史的建造物があります。しかしそれだけではなく、修行僧が日々お勤めをし、仏会が行なわれ、千日回峰行という厳しい行もある仏教の聖地です。ここには本物だけがもつ圧倒的な存在感があります。
その素晴らしさを宿泊のお客様にお伝えしようと、朝のお勤め体験と、通常非公開の登録有形文化財の大書院での一服のご協力をお願いしました。
しかし、『星野リゾート ロテルド比叡』に宿泊すると、こんな特別な体験ができますという、短期的な発信はしたくないと思いました。まず、オーベルジュとしての魅力を確立したうえで、延暦寺の素晴らしさをより深くお客様に知っていただく。中長期的な発信の場にしたいと考えてきました。
また、坂本も魅力的な街です。延暦寺の東塔エリアから坂本ケーブルで山々や琵琶湖を眺めながら坂本へ。戦国時代の石工集団である穴太衆(あのうしゅう)が築いた堅固で美しい石積みの石垣や、隠居した高僧の住まいである里坊、老舗の商店などが門前町を形成しています。
『星野リゾート ロテルド比叡』を拠点に、これらのエリアへ足を運んでいただきたいと思っています。京都とは異なる文化と歴史をもつ近江。ほんとうに山ひとつ越えるとこれほど違うものかと思います。
■ 滞在することで見えてくる価値
このオーベルジュを運営するに当たり、京都を捨てるほかに、ふたつのことを捨てました。ブライダルとランチ営業です。『星野リゾート ロテルド比叡』は以前は結婚式場としても利用されてきましたが、結婚式というのは土曜、日曜に集中します。宿泊のお客様を大切にしようと考えれば、切り捨てることがベストだと思いました。
またランチ営業も捨てることで、宿泊に特化できると考えました。レストランとオーベルジュの違いは、宿泊するからこそ見えてくる価値を感じてもらうことなのです。
宿から琵琶湖を望む絶景をぜひ堪能してください。とくに漆黒の湖を囲むように大津の街の明かりが浮かび上がる夜景は、素晴らしい限りです。この山上に泊まるからこそ、見える価値があるのです。
『星野リゾート ロテルド比叡』の料理長には、東京の星付きの名店で経験を積んだ滋賀県出身の岡亮佑シェフが就任しました。軽井沢はじつはあまり食材に恵まれない地で、そのなかで、生産者の方々と対話しながら、上質のフレンチを創り出していました。その経験を活かし、近江の食材と向き合っています。そして近江を代表する食材のひとつである鮒鮓(ふなずし)をフレンチに取り入れました。
琵琶湖の固有種であるニコロブナを用いて塩と飯で発酵させる鮒鮓は、近江独特の食文化です。写真の料理は、通常1年のところを約3年間熟成させた鮒鮓と、フロマージュブラン(フレッシュチーズ)を合わせ、貴腐ワインのジュレ(ゼリー寄せ)で琵琶湖の湖面をイメージした面白い一品に仕上げています。鮒鮓が苦手な方にもぜひ試してみていただきたい料理です。ほかにも琵琶鱒、稚鮎、鰻、スジ海老などの琵琶湖の恵みをふんだんに取り入れています。
京都の懐石料理とは異なる食文化、とくに発酵文化については、その歴史や技術には目を見張るものがあります。ウグイや鮎、鯖の熟れ鮨などもそうです。こうした味覚を育んできた琵琶湖が、日本で一番大きな湖ということはよく知られていますが、その文化性はなかなか伝わっていないように感じます。
発酵食品というのはほんとうに面白い。私はビール醸造会社も手掛けていたので、発酵については少しだけ知識を持っています。発酵食品は酵母の働きで味わいが微妙に変わるのです。ですからこの施設のオリジナルの鮒鮓ができるとさらに魅力的なオーベルジュを提案できる、と思っています。施設内に発酵工房ができないかと、ひそかに画策しています(笑)。
さらに近江には、国宝の仏像を有する古刹や城下町、近江商人ゆかりの町など、魅力が満載です。京都に飽きたら近江に行きましょう、まだ京都に飽きていないのですか? という立場になれたら面白い展開になるのでは(笑)。
■ペットで旅をあきらめないで
2015年には、栃木県鬼怒川温泉に『星野リゾート 界 鬼怒川』をオープンしました。こちらは鬼怒川沿いの小高い丘に新築する宿です。温泉旅館「界」ブランドとして初めての、ペット連れのお客様専用の客室を用意しました。
ペットを飼っている世帯人口は増える一方で、ペットが旅をあきらめるひとつの要因になっています。従来、ペットと一緒に泊まれる客室というのは、少し条件が悪い部屋をペット部屋にしているところが多いような気がします。そこでこの新しい「界」では、露天風呂付きの客室で、ドッグランを備えた部屋を用意しました。ペット連れ旅はいい部屋には泊まれないという状況を打破するためのトライアルです。
海外のオーベルジュに行きますと、レストランのなかでもペットを連れ込めるところも多く、テーブルの下で本当におとなしくしています。私も軽井沢に住んでいたころにシベリアンハスキーを飼っていましたが、私の犬では、ご馳走を目の前におとなしく伏せているのは無理だと思いますね(笑)。
軽井沢にある『村民食堂』でもペット連れ入店を可能にしていますが、しっかり躾されたペットは可、そうでないペットは不可、つまり個体識別をすることが必要なのです。社会全体からペットを排除するのではなく、どのように受け入れるかが大切なのです。
タトゥー(刺青)がある方の入浴問題もこれと同じです。日本では社会通念としてタトゥーのある方が大浴場を利用することを制限しています。これは刺青イコール反社会団体という意識が根付いているからなのですが、実際には厳守されていません。いっぽう、国内外の若い世代では、ファッションとしての小さなタトゥーが容認されてきています。時代が変化している以上、私たちのこれまでの意識も変える必要があります。
このような状況を受けて、ひとつの試みとして「界」ブランドの温泉大浴場で、8㎝×10㎝のシール1枚でタトゥーを隠せる場合に限り、入浴を可能とすることを試験的に半年間だけ実施すると発表したところ、賛否両論を巻き起こしました。絶対に反対だという方もいますし、ファッション・タトゥーをしている娘さんと一緒に入浴できると喜んでいるお母様からの反応もありました。いかに大きな問題であるかを表しています。
今はルールがなく、放置されている状態です。そこに一石を投じ、社会的な意識を変える第一歩になればいいと考えています。タトゥーをしている海外のスポーツ選手やタレントが、反社会的とは誰も思わないはずです。海外からのお客様が、温泉旅館で温泉に入れないと言われたらショックです。業界全体の意識を変える、そして私たちひとりひとりの意識を変えてみる。互いに理解しようと歩み寄ることが、一番大切ではないでしょうか。
【星野リゾート ロテルド比叡】
所在地/京都市左京区比叡山一本杉
電話/0570・073・022(星野リゾート予約センター)
チェックイン15時/チェックアウト12時
1室2名利用1泊2食付きひとり2万4000円~。全29室。
星野佳路(ほしの・よしはる)
昭和35年、長野県軽井沢町生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、米国コーネル大学ホテル経営大学院にて経営学修士号を取得。平成3年、株式会社星野温泉(現・星野リゾート)代表取締役社長に就任。平成15年には国土交通省より、第1回観光カリスマに選定。趣味はスキーで国内外で滑走を楽しむ。
※この記事は2015年10月号増刊『旅サライ』より転載しました。
取材・構成/関屋淳子
撮影/浜村多恵