文/澤田真一
放映中のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』では、人質時代の家康が描かれている。そもそも今年の大河作品は「人質のやり取り」がテーマのひとつでもある。井伊氏という、16世紀まで地方の小勢力に過ぎなかった一族が主役なのだから、シナリオもそういう流れになってしまうのだ。
16世紀の日本を語るには、どうしても人質を語ることになってしまう。だがそれは、我々現代人が想像するようなニュアンスの存在ではない。各地方の小豪族は、大勢力に従属する形で人質を差し出していたのだが、大勢力の主から見れば人質は貴重な人材だった。
彼らをぞんざいに扱う、などということは決してない。むしろ、君主は人質を「士官候補生」として扱っていた。だからこそ、各地の太守は最先端の教育を彼らに施していたのだ。
■人質は英才教育の対象
毛利元就は、中国地方の小勢力の頭に過ぎなかった。16世紀前半の中国地方は、東の尼子と西の大内という二大勢力が鎬を削っていた。逆に言えば、それ以外の豪族はどちらかへの従属を余儀なくされていたのだ。
元就は当初、尼子経久の傘下に入っていた。それが途中で大内義隆へ鞍替えし、その際に嫡男の少輔太郎を大内氏の拠点である山口に人質に出した。
つまり毛利から見れば、大内義隆は「お館様」と呼ぶべき存在である。だが義隆は少輔太郎を厚遇した。この大内義隆という人物は公家に近い性格の持ち主で、歌や芸事に明け暮れると同時に戦うことを嫌った。それが結果的に命取りになってしまうのだが、代わりに山口を文化都市として大いに栄えさせた。そんな義隆の文化人としてのスキルが、そのまま少輔太郎に伝達されたのだ。
さらに少輔太郎は元服の際、義隆から一字をもらい「隆元」と名乗った。隆元はこの名を最後まで捨てなかった。ということは、義隆に忠誠を誓っていたということだ。実父である元就の思惑はさておき、の話であるが。
もし大内義隆が陶晴賢に命を奪われていなければ、毛利隆元は「大内に仕える家老」としての地位を手に入れていたはずだ。
「大勢力が小勢力の子息を人質に取る」ということは、敵対する可能性のある勢力を「譜代の家臣」に転換させる作業でもある。これは文章で書く以上に大変なことだ。たとえば、数え8歳の男の子を人質に取って忠誠心溢れる家老になるまで育成するとしよう。すると丸々20年はその子に莫大な教育費をかけ続けなければならない。手抜きは禁物だ。
武田信玄は、人質たちに自分の持っている軍事知識の全てを叩き込んだ大名である。軍略の天才は、その理論の中に「秘伝」というものを持たない。武田の人質になった者は、最良の環境下で最良の授業を受けることができたのだ。真田昌幸は、そんな信玄の最高傑作と言ってもいい男である。
意外に知られていないが、信玄は「謀略の人」だ。上杉、今川、北条と接しながら同盟と裏切りを繰り返し、領土を勝ち取った日本史有数の蝮である。そして蝮の子は、やはり蝮だ。信玄の近習として主君直々の英才教育を受けた昌幸は、やがて徳川家康を追い詰める謀略家に成長する。
■人質という仕組みが優秀な人材を生んだ
その徳川家康も、『直虎』で描かれているとおり、もとはといえば今川氏の人質だった。
駿河を本拠地にする今川義元は、家康(幼少時の名は竹千代)を大事に育てた。太原雪斎が建立した臨済寺に家康を送り、前線指揮官としての訓練を積ませた。元服の際は烏帽子親になり、立派な鎧まで誂えている。
これは、どう見ても家康を厚遇していたとしか思えない。ゆくゆくは今川の重臣として大いに働かせる。それが義元の思惑だったのだ。
もっとも、家康は毛利隆元とは違い義元死後の今川をあっさりと裏切った。桶狭間合戦の頃の家康は「松平元康」という名だったが、家康は「元康」を躊躇いなく捨てた。「元」は義元からもらい受けた字であるからだ。
だが家康は、人質時代を人生の汚点として否定することはなかった。それどころか、自分が関わった臨済寺や浅間神社を保護し、駿河を自身の拠点として指定した。自分を育てたのが駿河だということを、しっかり自覚していたのだ。
そしてそんな家康に銃口を向けた真田信繁(幸村)も、上杉や豊臣の人質だった男。大坂の陣は「人質VS人質」と表現してもいい構図だ。これは「小規模領主の息子を人質に取る」という仕組みが、極めて優秀な人材を輩出していたという証拠である。
日本の姿を大きく変えた戦国時代は、人質たちの力と才能で動かされていたのだ。
取材・文・写真/澤田真一
フリーライター。静岡県静岡市出身。各メディアで経済情報、日本文化、最先端テクノロジーに関する記事を執筆している。