取材・文・写真/澤田真一

誰もが知る「関ヶ原の合戦」は、徳川家康にとっても石田三成にとっても、「豊臣家を存続させるため」のものだった。だが三成はともかく、家康の心の底には「徳川による天下布武」があった。彼は東国大名の力を結集して豊臣家を凌駕しようとしたが、上杉景勝と真田昌幸が西軍についてしまった。三成はそれを最大限利用し、徳川の脅威を叩き潰そうとしたのだ。

毛利輝元を総大将にして、西軍は家康の予想を遥かに上回る兵力を動員することに成功した。このまま何事もなければ、東軍を関東平野に押し込めることもできたはずだ。

しかし家康も無策ではなかった。いざという時の奥の手として、毛利勢の切り崩しを行っていた。それが予想以上に上手く運んでしまったからこそ、関ヶ原の合戦はたった1日で終わったのだ。

このような形の会戦は、世界戦争史上他にほとんど例がない。

関ヶ原古戦場には、シーズンを問わず多くの観光客が足を運ぶ。実際に行ってみて誰しもが感じるのは、関ヶ原は決して広い地域ではないということだ。

そもそも、ここは山と山の間の隘路に近いところだ。こんなところに両軍合わせて10万の大軍が戦っていたのだ。

銃器による戦術が確立する前の戦争は、言い換えれば「大々的な取っ組み合い」である。槍は突き刺すものではなく殴るもので、そうやって敵兵にダメージを負わせたあとに飛びかかって馬乗りになり、脇差で喉元を断つ。それはまるで柔術か総合格闘技だ。

そんなことをやっている足軽の視点からは、全体的な戦況など分からない。今現在どちらが優勢かというのは、軍団を率いる大将クラスの人間のみが知り得る。

笹尾山に陣取った石田三成は、勝利を確信していたはずだ。彼の目からは、関ヶ原に展開された軍団のほぼ全容を見渡すことができる。開戦時点では、西軍が東軍を挟撃する形で軍団が展開されていたのだ。南宮山の毛利勢は、徳川家康の本陣の背後を睨んでいるような形だ。

だが、この時点で三成ははっきりと認識するべきだったのだ。毛利勢は家康に切り崩され、一枚岩ではなくなったということを。

西洋の戦争は、カルタゴの将軍ハンニバルがその基礎を作ったとされている。会戦でいかに巧妙な戦術を使うか、少ない兵力で大きな敵軍をいかに駆逐するか。主眼は常に、戦場という名のチェス盤に置かれている。

対して、東洋の戦争は孫子に象徴されると言っても過言ではない。孫子はチェス盤の上の動向はあまり気にしない。それよりも重要なのは、自分が持っている駒の数であると説く。

戦争とは「戦って勝つのではなく、勝ってから戦う」というのが孫子の発想だ。つまり戦争とは、政治外交の延長線上なのだ。だから無駄な血を流さずに目的が達成できるなら、それに越したことはない。

関ヶ原の合戦は、ハンニバルの弟子たちには永遠に理解できない会戦だ。明治時代、日本陸軍に招聘されたドイツの軍人メッケルが指摘したように、西洋的な軍事思想から見れば、関ヶ原の合戦は西軍が勝利するはずであった。しかし、そうはならなかった。

徳川家康は、この会戦の要だった毛利勢をついに呑み込んでしまった。南宮山の吉川広家、松尾山の小早川秀秋、そして大坂城にいた毛利輝元。言い換えれば、家康は毛利との直接対決の可能性を回避することができたのだ。

これは間違いなく、チェス盤の外の戦いがもたらした結果であった。

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