文/澤田真一
長らく「情けない大名」という評価を下されることが多かった駿河の戦国大名・今川義元だが、現在、その人物の再評価が進んでいる。きっかけは、今年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』。落語家の春風亭昇太が演じる義元の姿は、軟弱どころか「百戦錬磨の恐るべき太守様」だった。
桶狭間で信長に敗れた「公家かぶれの軟弱な大名」というイメージから、「決して凡将ではなかった」という見方に変わりつつある今川義元。では実際の義元は、どのような人物だったのだろうか?
あまり知られていない今川義元の名将たる実像を、3つのポイントに絞ってお伝えしよう。
■1:五男坊から今川家トップの座へ
あまり知られていないが、実は義元は今川家の嫡男ではない。当主・今川氏親の五男。それが当初のポジションだった。
現代と違い、昔は乳児死亡率が高かった。だから当主は、できるだけ多くの「スペア」を生み出そうとしたわけだが、それにしても五男坊という立ち位置から眺める当主の座は、あまりに遠すぎたであろう。
スペアのそのまたスペアに過ぎない義元は、幼少期に仏門に入っている。このまま何事もなければ、「今川義元」という名の人物すら登場しなかったはずだ。
しかし、運命の歯車は奇想天外な方向へ狂い始めた。義元の兄がふたり、まったく同日にこの世を去ったのだ。残るは3番目の兄である玄広恵探(げんこう・えたん)、4番目の兄の象耳泉奘(しょうじ・せんじょう)であるが、このうち象耳泉奘は僧侶としての生涯を選んだ。そして、残る玄広恵探と義元との間で、「花倉の乱」と称される熾烈な家督争いが始まったのだ。
当初は恵探が駿河府中の今川館を襲撃する等、攻勢を見せていたが、戦況は次第に義元に有利になり、乱の勃発から短期間で、恵探は自害に追いやられた。
今川義元は、極めて不利なポジションから出発し、自分自身の実力と才覚とで今川家当主の座をもぎ取った人物なのだ。
■2:絶妙な外交で本拠地を守り抜く
駿河の今川家は、近隣に強力なライバルを抱えていた。東の後北条氏と、北の武田氏である。ところがお家騒動の内紛を経たにも関わらず、今川家は弱体化せず、周辺諸国の軍勢に蹂躙されることもなかった。
駿河というのは、戦略上の重要拠点である。日本の東西をつなぐ連絡路がたった数本に限られる中で、東海道は最大の街道であり、駿河はその交通の要所であった。当然、誰もが手に入れたくなるのは当然。
しかし義元が生存している間、北条も武田も駿河に手が出せず、政略結婚に基づいた同盟を維持した。誰もが欲しがる重要拠点を守り通したという点は、名将として十分な評価に値するはずだ。
その上で義元は、西方の遠江と三河を併合し、尾張の織田氏と衝突していた。桶狭間の戦いは義元が討ち取られたことばかり強調されているが、義元の視点から見れば絶妙な外交政策に支えられた、完璧な遠征事業だったのだ。
■3:優秀な参謀と盤石の体制築く
いくらトップが有能でも、たったひとりではできることに限りがある。トップが考えていることを上手く読み取り、それを実行に移す人間がどうしても必要だ。その点、義元は参謀にも恵まれていた。
義元の参謀といえば、やはり太原雪斎という僧侶である。先述の後北条および武田との同盟も、雪斎の力によるものが大きい。これがなければ今川は、東方と西方の二方面作戦を余儀なくされ、場合によっては力尽きていたかもしれない。
また、義元の実母である寿桂尼の存在も忘れてはいけない。今川家中では義元の次に大きな発言力を持ち、義元が桶狭間で死んだあとも、今川家の安定化に精力を注いだ。
寿桂尼の死は、桶狭間の戦いの8年後。そして彼女が死んだ直後に、武田信玄は駿河へ兵を向けている。つまり裏を返せば、信玄は寿桂尼の存命中は駿河に侵攻できなかったのだ。
これは、義元が確立した強固な外交ドクトリンが、彼の死後も寿桂尼はじめ参謀たちの差配によって今川家と駿河をがっちり支え続けたということを示している。「滅多なことでは滅亡しない」頑強な今川家を構築したのは、義元であり、その優秀な参謀たちであったのだ。
以上の点を考慮すると、今川義元の実際の人物像は、まさに春風亭昇太がNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』で演じてみせた今川義元像に近かったのではないかと想像できる。つまりそれは、数々の修羅場を乗り越えた手練の戦国大名というイメージだ。
家督相続とは程遠いポジションからのスタートで、血の滲むような思いで駿河の太守の座を勝ち取った義元。彼が戦国最強クラスの名将であったことは、間違いないようだ。
取材・文・写真/澤田真一
フリーライター。静岡県静岡市出身。各メディアで経済情報、日本文化、最先端テクノロジーに関する記事を執筆している。