文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

世界中で知られるクリスマスソング「きよしこの夜」。その生誕の地は、オーストリアとドイツの国境の町にある。音楽の町ウィーンを首都とするオーストリアだが、「きよしこの夜」は意外にも有名作曲家によるものではなく、小さな田舎町の学校の先生が、聖職者に依頼されて作曲した曲だ。

「きよしこの夜」生誕の地を訪れ、歴史を紐解きつつ、この曲に隠されたメッセージを読み解いていく。

「きよしこの夜」礼拝堂

国境の町の悲劇

「きよしこの夜」生誕の地は、オーストリア第二の都市ザルツブルクから20kmほど北にある、小さな村オーベルンドルフだ。

この村を訪れると、その地理的な特徴が目を引く。ザルツアッハ川という川に面していて、その川向こうには、ドイツのラウフェンという町があるのだ。

手前はオーストリア、川向こうはドイツ

ドイツ側とオーストリア側は二本の橋でつながっていて、橋の真ん中が国境だ。橋の上を徒歩で国境越えできるのも、この地ならではの体験だ。

国境越えの橋で、ドイツ側からオーストリア側へ歩く

現在は国境を挟んだ別個の町と村だが、1816年までこの二つは一つの町だった。ザルツアッハ川を使った塩の運搬の要所となるこの町では、両側の住民は家族も住民も自由に行き来し、川の両岸が一つの町として栄えていた。

この町の運命を大きく変えたのは、1799年に始まったナポレオン戦争だ。領主ザルツブルク大公国が衰退し、15年以上戦禍に耐えたこの地域は、戦後のウィーン会議により、ザルツアッハ川を境に、オーストリアとバイエルン公国に分割されてしまう。

橋の上に記された国境。Dはドイツ、Öはオーストリア

川の西側の町の中心部はラウフェンという名を残してバイエルン公国に属したが、川の東側はオーベルンドルフとして切り離され、オーストリアの一部となった。何百年も川の両岸で共に行っていた生活が、突如として国境線によって引き裂かれたのだ。

「きよしこの夜」の歌は、そんな戦後の混乱の中で生まれた曲だ。

「きよしこの夜」誕生の夜

ドイツ語ではStille Nacht, Heilige Nacht(静かな夜、聖なる夜)で始まる「きよしこの夜」の歌は、ヨーゼフ・モーアという若い聖職者によって、近隣の町で1816年に作詞された。この地域がいまだ敵軍の兵に占領され、先が見えない時代だ。現在はあまり歌われることのない4番の歌詞には、平和と静けさを望む作詞者の願いが読み取れる。

このモーアが2年後オーベルンドルフに赴任してきて、隣村のオルガニスト兼学校教師フランツ・グザヴァー・グルーバーに作曲を依頼したのが、この曲の始まりだ。

モーアとグルーバーの碑

こうして、1818年12月24日、オーベルンドルフの聖ニコラス教会のクリスマスミサで、「きよしこの夜」が世界で初めて演奏された。作詞者モーア本人がギターを弾きながらテノールを歌い、作曲者グルーバーがバリトンを歌った。オルガン演奏ではなく異例のギター演奏となった理由は、洪水のため教会のオルガンが故障していたという説や、ミサの後でクリッペ(キリスト生誕場面の模型)の前で歌われたためなど、様々な説がある。

「きよしこの夜礼拝堂」の祭壇

世界一有名なクリスマスソングへの道

この小さな村の教会でたった一夜だけ演奏されたささやかな曲が、世界中に広がったのには、様々な偶然が重なっている。

この曲を見出したのは、オーベルンドルフの教会のオルガン修理担当者だ。この人物が故郷のチロル州フューゲンにこの曲を持ち帰り、クリスマスミサで演奏された。

こうして、生誕の地オーベルンドルフから150km離れたチロルの地で、「きよしこの夜」は人気を博し始める。奇しくもこの地方出身の旅商人たちは、歌声で客引きをする習慣があった。この歌う旅商人たちの手によって、この曲は爆発的に拡散していく。そのルートには二種類あったとされている。

手袋などの布製品の旅商人だったシュトラッサー一家は、客引きのためにドイツのライプツィヒの街角で「きよしこの夜」を含む故郷の歌を披露したところ、次第にクリスマスミサやコンサートなどで演奏を請われるようになり、瞬く間にドイツ全土に知れ渡った。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世は、この曲が大のお気に入りだったという。

一方、「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ一家のように世界中を旅する合唱団だったライナー一家は、1822年にこの地を訪れたオーストリア皇帝フランツ一世とロシア皇帝アレクサンドル一世の前でこの歌を披露したとされている他、ドイツ、イギリス、ロシア、その後1839年にアメリカでも公演を行っている。

モーアが晩年を過ごしたヴァグラインに建つ「きよしこの夜」博物館には、世界各地への広がりが展示されている

作詞、作曲家があまりに無名だったため、長らくモーアとグルーバーの名は忘れられ、この曲はハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの曲として紹介されることもあった。後に本人たちの証言や初校が発見され、モーアとグルーバーの功績が「再発見」された形だ。

ハラインにある、グルーバー最期の家は博物館になっていて、墓碑が刻まれている

こうして、国境沿いの小さな村で初演された無名の歌が、様々な偶然を経て世界へ広がっていった。第一次大戦中のクリスマス休戦で、敵軍だったイギリス兵とドイツ兵が塹壕でこの歌を歌ったエピソードは、歌詞に込められた平和と平穏への願いを象徴している。現在では300カ国語に翻訳され、ユネスコの無形文化遺産にも指定されている。

「きよしこの夜」礼拝堂

「きよしこの夜」初演の地には、小さな礼拝堂が建っている。

モーアとグルーバーが歌った聖ニコラウス教会は、度重なる洪水のため、取り壊しを余儀なくされた。新しく安全な立地に橋が作られたため、オーベルンドルフの村自体が橋と共に移動し、教会も役割を終えた。

旧オーベルンドルフに建つ給水塔と「きよしこの夜」礼拝堂

それでも、「きよしこの夜」生誕の地を記念する礼拝堂の建設が望まれ、1924年、聖ニコラウス教会跡地に、小さな礼拝堂が作られた。祭壇には、キリスト生誕の場面が描かれ、左右のステンドグラスはモーアとグルーバー、そして当時の教会の姿が刻まれている。

作詞者モーアと旧教会のステンドグラス

この礼拝堂のそばにはモーアが暮らした建物があり、現在はこの二つの町の歴史やゆかりの人物に関する展示を含む、「きよしこの夜」博物館となっている。

オーベルンドルフの「きよしこの夜」博物館

「きよしこの夜」ゆかりの地巡りの楽しみ

ユネスコ無形文化遺産に登録され、2018年には「きよしこの夜」200周年を迎えたこともあり、オーストリア国内には様々なゆかりの地が存在する。

この歌の平和を望むメッセージテーマとしたハイキングコースが整備され、ドイツから国境を渡り、オーストリアの「きよしこの夜」礼拝堂を通ってまたドイツに戻るなど、歴史散策を兼ねた街歩きも楽しむことができる。

モーア晩年の地ヴァグラインには記念博物館がある他、ハラインにあるグルーバー最期の家も博物館となっている。他にも多くのゆかりの地があるので、この曲にまつわる歴史を味わいながら巡ってみるのもよいかもしれない。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。監修やラジオ出演も。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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