文/ケリー狩野智映(海外書き人クラブ/スコットランド・ハイランド地方在住ライター)

スコットランド南西部を流れる全長170kmのクライド川は、スコットランドで3番目に長い河川。このクライド川上流の川沿いに、2001年にユネスコ世界遺産に指定された旧紡績工場と工員住宅群が構成する村ある。その名はニューラナーク(New Lanark)。

2001年にユネスコ世界遺産に指定されたニューラナーク。
写真提供:New Lanark Trust

スコットランド最大の都市グラスゴーから約40km南東にあるニューラナークの紡績工場は、英国産業革命初期の1786年に操業を開始し、最盛期には2500名を超える工員を抱え、欧州屈指の業績を誇っていた。

英国内には、このニューラナーク以外にもユネスコ世界遺産に指定されている旧紡績工場がもう1か所ある。それは、イングランド中央部のダービーシャー州にあるダーウェント峡谷の工場群(http://www.derwentvalleymills.org/)なのだが、こことニューラナークの紡績工場はほぼ同じ時期に創設され、いずれも英国紡績産業の先駆者とされる発明家リチャード・アークライト(Richard Arkwright)が開発した水力紡績機を導入していた。

英国紡績産業の先駆者リチャード・アークライト。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sir_Richard_Arkwright_by_Mather_Brown_1790.jpeg

労働者の理想郷

ダーウェント峡谷の工場群は、機械制大規模工場生産発祥の地とされている。それに対してニューラナークが特筆に値する点は、過酷な労働条件があたり前だった時代にあって、工員の福祉と児童教育を重視した、労働者の理想郷ともいえるコミュニティであったという驚くべき歴史である。

1818年頃のニューラナークのスケッチ。
画像提供:New Lanark Trust

ニューラナークの労働力の多くは、グラスゴーやエディンバラなどの都市の救貧院や孤児院から集められており、領主から土地を追われたハイランド地方の人々も数多くいた。そのため、創業当時から工員とその家族に住居が提供されていたのだが、それが当時としては非常に高い水準のものだった。

1820年代の工員の生活を垣間見ることができる工員用住宅の中。現代の水準からすると劣悪な生活環境だが、当時ではかなり高いものだった。

1813年には、良質の食料雑貨を一括購入し、ほぼ原価に近い価格で販売する商店が工員の村落に開設されている。その利潤は工員村落コミュニティの福利のために使われていた。これは協同組合の基礎となった制度と見なされている。この商店は開店から100年もの間にわたって工場が所有・経営していたが、1933年にラナーク生活協同組合に賃貸された。現在、この商店はビジターアトラクションのひとつになっている。

工員の村内に開設された食料雑貨店。写真は1909年頃のもの。
写真提供:New Lanark Trust
開設されて間もない頃の食糧雑貨店内の復元。
写真提供:New Lanark Trust

さらに、賃金の60分の1を掛金として納めることで、怪我や病気などで働けなくなった場合に疫病保険金を受けることができる制度のほか、工員用の貯蓄銀行も設けられていた。

デイヴィッド・デイルとロバート・オウエン

ユートピア社会主義を体現するようなニューラナークを築き上げたのは、グラスゴーの実業家で博愛主義者であったデイヴィッド・デイル(David Dale)と、その娘婿でウェールズ出身の実業家ロバート・オウエン(Robert Owen)である。オウエンの日本語表記にはばらつきがあるが、ここではロバート・オウエンとする。

ニューラナークの創設者デイヴィッド・デイル。
画像提供:New Lanark Trust

ニューラナークを創設したのはデイルだが、1799年にデイルの娘キャロラインと結婚したオウエンは、2人の共同出資者とともにニューラナークを舅のデイルから買い取った。産業革命真っ只中の1799年から1824年の期間に同工場の経営・運営にあたったオウエンは、資本家と労働者が共栄できる理想的な産業コミュニティの確立を目指して数々の労務管理体制の改革と社会改善に取り組み、ニューラナークを「未だかつて世界のいかなる場所でも着手されたことのない、人類の幸福のための偉大なる実験」と描写していたという。

労働者の生活改善に尽力したロバート・オウエン。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Robert_Owen_by_William_Henry_Brooke.jpg

ニューラナークの工員村に食糧雑貨店を開設したのも、疫病保険制度や貯蓄銀行を設けたのもオウエンである。彼は政治的にも労働者の保護に尽力し、英国で9歳以下の児童の労働禁止と16歳以下の労働時間を12時間に制限する1819年の紡績工場法の制定にも大きく貢献した。そのため彼は「協同組合運動の父」や「英国社会主義の父」とも呼ばれ、日本に世界最古のロバート・オウエン協会(正式名称はロバアト・オウエン協会 https://ccij.jp/owen)があるほど世界の思想に多大な影響を及ぼした人物である。

性格形成論と世界初の幼児教育

児童労働があたり前の慣行であった産業革命時代にあって、ニューラナークでは児童基本教育制度が導入されていた。これは創設者のデイルの時代に始まったことで、工場内の学校は1796年には16名の教員を擁し、507名の児童工員に読み書きと算数を教えていた。6歳以下の児童は日中、それ以上の児童工員は工場での仕事を終えた夜に授業を受けていたという。オウエンはそれをさらに高い水準へと引き上げた。

人間の性格は環境によって決定され、環境改善によって優良な性格形成を促せると主張したオウエンは、1816年に「性格形成学院(Institute for the Formation of Character)」と名付けたコミュニティセンター兼教育施設を新設した。

性格形成学院の校舎。

オウエンは10歳以下の児童の就労を禁じ、ここの児童学校に就学させた。そして1歳から6歳までの幼児は「幼児学校」に通わせ、母親が工場で働くことができるように計らった。これはつまり、世界初の職場内保育施設なのである。

記録では、1816年にこの学校は14名の教員と274名の生徒を擁していた。授業時間は午前7時半から午後5時まで。五感を育むことで知識の渇望を促すという考えのもと、読み書きと算数に加え、歌やダンス、自然学、歴史、地理、美術もカリキュラムの一部になっていた。そしてここでは体罰が固く禁じられていた。

学校でのダンスの授業の模様。
画像提供:New Lanark Trust

このように当時としては考えられないほど先進的な教育システムを実践していたオウエンは、「幼児教育/義務教育の父」として今もなお世界的に称えられており、日本でも保育や幼児教育関連の文献などでよく取り上げられている。

現在のニューラナーク

オウエンが1824年に経営から手を引いた後、ニューラナークは何度か所有者の入れ替わりを経験しているが、紡績工場は1968年まで現役で、何世代にも渡ってここの工員村に住んできた家族もいた。

現在のニューラナークは、1974年に創設されたニューラナーク保全財団の管理下にある。1970年代後半から数十年かけて段階的に修復工事が行われ、現在では工員用住宅の一部は1820年代と1930年代の工員たちの生活環境を垣間見ることができるように復元されている。ロバート・オウエンやデイヴィッド・デイルの家もあり、オウエンの家は中を見学することができる。

オウエンの家。
オウエンの書斎。

性格形成学院はビジターセンターの受付となっており、カプセルを縦半分に割ったようなライドに乗って、1820年代の少女工員アニー・マクラウドのホログラムの案内で当時の工員たちの生活を「体験」できるアトラクションもある。

ライドに乗って1820年代の工員たちの生活ぶりを体験できる「アニー・マクラウド・エクスペリエンス」 写真提供:New Lanark Trust

児童学校の校舎内には、オウエンの時代の教室の復元や、1881年から1971年までのニューラナークの歩みを学べるインタラクティブな展示ルームもある。

児童学校の校舎。写真提供:New Lanark Trust
当時の教室を復元したもの。写真提供:New Lanark Trust

さらに一部の工員用住宅は賃貸住宅および個人所有の住宅になっており、現在の住民数は150人程度だそうだ。そして旧第1工場の建物はなんと、グルメレストラン、屋内プールやスパ施設も整った立派な4つ星ホテルになっていて、結婚式の会場としても人気があるそうだ。ユネスコ世界遺産の中で宿泊したり結婚式を挙げるというのは、この上ない特別感を味わえる体験であろう。

現在は4つ星ホテルになっている第1工場。写真提供:New Lanark Trust
シンプルだが快適そうな客室。写真提供:New Lanark Trust

泊りがけでじっくり時間をかけてオウエンの目指した労働者の理想郷について学んだ翌日は、傍を流れるクライド川沿いの散策路で、心洗われるような美しい自然に囲まれてウォーキングを楽しむのもいいだろう。

ニューラナーク公式ウェブサイト:https://www.newlanark.org/
ニューラナークホテル:https://www.newlanarkhotel.co.uk/

文/ケリー狩野智映(スコットランド在住ライター)
海外在住通算29年。2020年よりスコットランド・ハイランド地方在住。翻訳者、コピーライター、ライター、メディアコーディネーターとして活動中。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織海外書き人クラブ(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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