文/ケリー狩野智映(海外書き人クラブ/スコットランド・ハイランド地方在住ライター)

2013年の初頭、スコットランドのエディンバラ中央図書館の収蔵庫で、江戸中期の浮世絵師、古山師政(ふるやま もろまさ)の作品とされる、長さ12メートル超の絵巻物が「発見」され、英国のメディアで大きな話題になった。

エディンバラ中央図書館の収蔵庫で「発見」された古山師政の『江戸往来図巻』。
写真提供:City of Edinburgh Council – Libraries

『江戸往来図巻』と題されたこの絵巻物には、歌舞伎座や浄瑠璃劇場、風呂屋、商店などを背景に、武士や町人などさまざまな階層の人々が行き交う江戸の様子が描かれている。この貴重な文化財は実は、1873年から1882年の期間に東京大学工学部の前身のひとつである工部省工学寮工学校の初代都検(実質上の校長)を務めたスコットランド出身の技術教育者、ヘンリー・ダイアーが所蔵していたものだった。ダイアーの娘が1940年代にエディンバラ中央図書館に寄贈したものの、そのまま70年近くも収蔵庫で眠っていたのである。

この記事では、「日本の西洋式技術教育の父」と称えられるヘンリー・ダイアーの功績と、エディンバラ中央図書館やグラスゴーのミッチェル図書館に所蔵されているダイアーの日本美術コレクションを紹介する。

工部省工学寮工学校の初代都検

1848年にスコットランドの中南部ラナークシャー(現ノース・ラナークシャー)の小さな村で労働者階級の家庭に生まれたヘンリー・ダイアーは、グラスゴーの鋳造工場で技術者の見習いとして修業しながら、アンダーソン・カレッジ(現ストラスクライド大学)の夜学で工学を学んだ。長州ファイブの1人として英国に密航した山尾庸三(やまお ようぞう/筆者の前回の記事で紹介:https://serai.jp/?p=1114093)とダイアーは、このアンダーソン・カレッジの夜学の同窓生であった。

ヘンリー・ダイアー。
写真提供:University of Glasgow Archive & Special Collections: UGC232/3/5

勤勉で極めて優秀だったダイアーは、1868年に奨学金を得てグラスゴー大学の高名なウィリアム・ランキン(William Rankine)教授の下で土木工学を学んだ。在学中はランキン教授からかなり将来を見込まれていたようで、岩倉使節団から工部省工学寮工学校の教員の人選を依頼されていた同教授の推薦により、1873年に卒業したばかりの弱冠24歳で同校の初代都検に就任することとなった。

ダイアーは、基礎課程、専門課程、実地課程を2年ずつ学ぶ3期6年制、土木、機械、建築、電信、化学、冶金、鉱山、造船の6学科とする学則や講義要目を設定し、半年ごとに講義と実習を交互に行うサンドイッチ方式を導入して、日本の近代的な技術教育の基礎を築き上げた。

日本人の教え子が1882年にダイアーに宛てた感謝状。
写真提供:University of Glasgow Archives & Special Collections: UGC232/1/5

上の写真は、1882年に退任したダイアーがスコットランドに帰国した際、日本の元教え子たちがダイアーに宛てて送った感謝状で、現在はグラスゴー大学に所蔵されている。

帰国後も日本との懸け橋として奔走

帰国後のダイアーは、グラスゴー大学に留学したり、スコットランドで技術研修に従事していた日本人を積極的に世話していたという。

グラスゴー大学評議会は1901年に日本語を入学試験の科目として認めているが、その背後にはダイアーの熱心な働きかけがあった。この計らいの恩恵を受けた最初の日本人留学生は、福沢諭吉の三男の福沢三八である。ちなみにこのとき、日本語試験の審査官には、当時英国に滞在中であった夏目漱石が任命されている。

ダイアーの日本美術品コレクション

前回紹介したコリン・アレグザンダー・マクヴェイン同様、ダイアーも日本からさまざまな美術品を持ち帰っている。ダイアーが1918年9月25日に肺炎で他界した後、その一部が彼の遺族によってグラスゴーのミッチェル図書館やエディンバラ中央図書館などに寄贈された。

ミッチェル図書館が提供してくれた資料によると、同図書館は1924年と1927年の2回にわたり、ダイアーの遺族から計6000点を超える資料や美術品の寄贈を受けている。そのうち172点にのぼる日本の美術品は、大半が浮世絵木版画集や巻物だそうだが、南北朝時代の貞和3年(1347年)に飛騨守巨勢惟久(ひだのかみこせのこれひさ)が描いた『後三年合戦絵巻』の19世紀の写本も含まれている。

1920年代にヘンリー・ダイアーの日本美術コレクションの寄贈を受けたグラスゴーのミッチェル図書館。

冒頭で紹介した古山師政の『江戸往来図巻』を所蔵しているエディンバラ中央図書館は、1945年と1955年にダイアーの娘から、掛軸のほか、書道作品と絵画をまとめたアルバムや木版画集などの174点におよぶ日本美術品の寄贈を受けた。

エディンバラ中央図書館。古山師政の『江戸往来図巻』をはじめ、ヘンリー・ダイアーの遺族が寄贈した日本美術コレクションの多くが所蔵されている。
二代歌川国貞(梅蝶楼国貞)が描いた『紫式部源氏かるた・柏木』。
エディンバラ中央図書館のダイアー・コレクションの一部。
写真提供:City of Edinburgh Council – Libraries

上は、江戸時代の浮世絵師、二代歌川国貞(1823~1880年)が描いた錦絵『紫式部源氏かるた』からの『柏木』である。安政4年(1857年)に出版された国貞の『紫式部源氏かるた』は、日本でも国立国会図書館や筑波大学図書館などに所蔵されているが、これはヘンリー・ダイアーが持ち帰ったもので、現在ではダイアー・コレクションの一部としてエディンバラ中央図書館に所蔵されている。

ダイアー・コレクションには、狩野派の画家による作品も数多くある。下は、源平合戦の一シーンを描いた狩野一信(かのうかずのぶ)の作品で、1832年に描かれたものとされている。

狩野一信(1816年~1863年)が源平合戦の一シーンを描いた作品。
写真提供:City of Edinburgh Council – Libraries

エディンバラ中央図書館のダイアー・コレクションはデジタル化されており、こちら(https://www.capitalcollections.org.uk/quick-search?q=Henry%20Dyer&WINID=1677947626545)からオンライン閲覧することができる。

原物を目にする感動

ダイアー・コレクションの日本の名品は、エディンバラ中央図書館に事前に申し込めば原物を見せてもらえる。ただし、これらの貴重な品々は非常に慎重に扱わなければならないため、閲覧は専門の訓練を受けた職員が対処できる日時のみに限られる。筆者は今年の2月中旬に数日間エディンバラに滞在することになったとき、この機会にぜひとも原物を拝みたいと、出発の2週間ほど前に閲覧を申し込んだのだが、残念ながらその期間は担当職員が休暇中ということで断念せざるを得なかった。

ところが、エディンバラ滞在3日目のこと。その日の朝は灰色の空に冷たい小雨がしとしとと降るスコットランドらしい憂鬱な天気で、「屋外の観光を満喫しよう!」とはりきれるようなものではなかった。そこで、初日に訪れて気に入ったらしい9歳の娘のリクエストで、スコットランド国立博物館を再び訪問することにした。

スコットランド国立博物館。モダンな造りの新館で描写されることが多いが、これは1886年に建てられた本館。

初日に見きれなかったエリアを散策しているうちに、レベル5にある「Exploring East Asia(東洋の探索)」という展示室にたどり着いた。そこで最初に目についたのは、武士の鎧と日本刀が展示された大きなショーケースだったが、その横を過ぎると、見覚えのある絵巻物が入ったショーケースが目に飛び込んできた。興味津々で傍まで行ってみると、なんとそれは、例の古山師政の『江戸往来図巻』ではないか!

スコットランド国立博物館に展示されている古山師政の『江戸往来図巻』。ショーケースの横にはインタラクティブなパネルがあり、それぞれのシーンの詳細解説を読むことができる。
『江戸往来図巻』のクローズアップ。

あまりにも新品のような新鮮さなので、てっきり複製かと思ったのだが、説明を読むとこれが原物であることが判明した。エディンバラ中央図書館からの借入で展示中とのことだ。原物を目にした感動で思わず跪(ひざまず)きそうになったが、こみ上げる感情をぐっと抑えて静かにこの名品に見入った。

この作品は2013年に「発見」された際にはかなり傷んでいたそうだが、基礎科学、環境、芸術・文化、国際交流等の分野で研究や事業に対して助成を行う住友財団から350万円の助成金を受け、丁重に修復された。その成果は上の写真からも見て取れるように、目を見張るものである。

エディンバラを訪れる機会があれば、エディンバラ中央図書館にダイアー・コレクションの閲覧を(事前に)願い出るか、スコットランド国立博物館を訪れて、ヘンリー・ダイアーが遺した日本の名品をじっくり鑑賞して欲しい。

エディンバラ中央図書館:https://www.edinburgh.gov.uk/centrallibrary
ヘンリー・ダイアーコレクションを解説するエディンバラ中央図書館のYouTube動画
パート1:https://www.youtube.com/watch?v=c2YqHQCSrF4
パート2:https://www.youtube.com/watch?v=6THl_1UVG4M
スコットランド国立博物館:https://www.nms.ac.uk/national-museum-of-scotland/
グラスゴーのミッチェル図書館:https://www.glasgowlife.org.uk/libraries/venues/the-mitchell-library

文/ケリー狩野智映(スコットランド在住ライター)
海外在住通算28年。2020年よりスコットランド・ハイランド地方在住。翻訳者、コピーライター、ライター、メディアコーディネーターとして活動中。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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