文/ケリー狩野智映(海外書き人クラブ/スコットランド・ハイランド地方在住ライター)
スコットランド出身の明治政府お雇い外国人コリン・アレグザンダー・マクヴェイン(Colin Alexander McVean)は、日本の近代化に多大な貢献をしたにもかかわらず、その名と功績はほとんど知られていない。筆者が前回紹介した「日本の灯台の父」、「横浜まちづくりの父」リチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton https://serai.jp/tour/1107172)と比べると、マクヴェインの知名度はほぼゼロに近いだろう。
この記事では、マクヴェインの曾孫にあたるコリン・フーストン氏が提供してくれた貴重な写真と資料を織り交ぜ、彼の波乱万丈の人生をたどる。
聖職者の長男から国際的な土木技術者へ
マクヴェインは、スコットランド西海岸沖にある小さな島、アイオナ島の自由教会の牧師の長男として1838年に生まれた。アイオナ島は、6世紀にアイルランド出身の聖人コルンバがスコットランドへのキリスト教布教の拠点として修道院を設立した場所で、現在でもキリスト教の聖地のひとつと見なされている。
幼年期は父の蔵書などで知識を培い、その後エディンバラのハイスクールで正式な教育を受けたマクヴェインは土木工学の道を選び、当時高名だったエディンバラのマッカラム&ダンダス技術事務所で見習いとして修業した。
1861年にスコットランド・ヘブリディーズ諸島の測量に従事した後、海外でのキャリアを追求し始めた若きマクヴェインは、1864年にオスマン帝国下のブルガリアで英仏共同の鉄道建設事業に技師として従事し、その2年後の1866年にはワラキア(現ルーマニア)の鉄道測量にも携わっている。
日本の灯台建設副技師として採用
1868年に徳川幕府の依頼でエディンバラのスティヴンソン事務所が灯台建設の技術主任と副技師2名を募集したとき、マクヴェインもこれに応募した。しかし、技術主任に選出されたのは、彼よりも数年若く、海外での経験を持たないリチャード・ヘンリー・ブラントンであった。マクヴェインは、アーチボルド・ブランデル(Archibald Brundell)とともに副技師として採用され、灯台建設に関する3か月間の集中研修を受けた後、ブラントン夫妻とともに同年6月に日本へと旅立った。
マクヴェインは日本へ出発する直前に、エディンバラ近郊の製紙工場主で慈善家のアレグザンダー・コーワン(Alexander Cowan)の末娘メアリーと結婚している。メアリーの実家はスコットランドの政治経済に深く関わっており、2人の兄は国会議員も務めた。1872年に岩倉使節団がスコットランドを訪れた際、一行はコーワン製紙工場を視察し、当時エディンバラ市長だったメアリーの兄ジョン・コーワン(John Cowan)からコーワン家の屋敷で接待を受けている。その背後には、マクヴェイン夫妻の手配があったと思われる。
日本到着後の仕事
マクヴェインたちは1868年8月に日本に到着し、徳川幕府から灯台建設事業を引き継いだ明治政府の灯明台掛勤務となった。だが当時の日本はまだ戊辰戦争のただ中で、灯台建設を開始できるような状況ではなかった。
そこでマクヴェインたちは、灯明台事務所や灯台船の設計、外国人居留地の測量などに取りかかった。マクヴェインはさらに、ブラントン夫妻と自分たち夫婦それぞれのために横浜外国人居留地内の住居も設計している。
この新居が完成したのは翌年の1869年5月のことで、同年5月31日のマクヴェインの日記には、「新居に引っ越しするための荷造りを始めた」と書かれている。
ブラントンとの不和
マクヴェインは上司であるブラントンと馬が合わず、仕事の進め方で衝突することが度重なったという。自分より若く、経験の面でも自分より勝るとは思えない人物を上司に持つというのは、複雑で苛立ちが募りやすいことだったのではないだろうか。
マクヴェインとブラントンの不和を決定的なものにしたのは、明治日本最初の本格的な灯台建設だった下田沖の神子元島(みこもとしま)灯台建設工事である。同灯台の建設工事は1869年3月に始まったが、作業に不慣れな日本人職人との意思疎通がうまく取れなかったうえに、請負業者の不正が続いて工事は難航した。
マクヴェインは工事手順の見直しをブラントンに訴えたが、ブラントンは聞き入れなかった。このことで堪忍袋の緒が切れたのだろうか、マクヴェインはもう1人の副技師ブランデルとともに灯明台掛に辞職願を出し、灯台建設事業から身を引いた。
工部省の測量師長として再出発
灯明台掛を辞め、友人と共同出資した横浜外国人居留地内の鉄工所をしばらく経営していたマクヴェインを工部省の測量師長に起用したのは、「長州ファイブ」の1人として幕末に英国に密航した過去を持つ山尾庸三(やまお ようぞう)である。
1868年に英国から帰国した山尾とマクヴェインは、スコットランドに共通の友人がいたことや、山尾がグラスゴー訛りの英語を話したことなどで親しい仲になった。ちなみに、卒業式の定番である『蛍の光』はスコットランド民謡『Auld Lang Syne(オールド・ラング・ザイン)』を原曲としたものであるが、この歌を日本に持ち込んだのは山尾であるという説もある。
新設された工部省下の測量司で1871年9月に測量師長に就任したマクヴェインは、国土測量や地図作成、日本人測量技師の育成、気象観測のほか、東京大学工学部の前身のひとつである工学寮工学校の校舎の設計・施工にも従事している。
1872年4月に銀座の御堀端から築地にかけての一帯が焼失した銀座大火の後には、復興計画作成のための測量を実施し、政府から多大な報奨を得た。同年5月には、山尾の指示で旧江戸城の測量も行っている。
マクヴェインは、1874年12月9日の金星太陽面通過観測にも貢献した。下の写真はその時の「記念撮影」であるが、マクヴェインは後列右から3人目。彼のトレードマークとも言えるスコットランドのベレー帽「タム・オ・シャンター」をかぶっている。ちなみに、後列中央で望遠鏡をのぞき込むような姿勢の人物は、先述のウィリアム・チーズマン。その隣でやや左方向を向いている山高帽の人物は、筆者がスカラブレイ遺跡の記事 (https://serai.jp/tour/1105033)で紹介したドイツ系英国人水路測量技師、ヘンリー・シャボー(Henry Scharbau)である。シャボーを日本に呼び寄せたのもマクヴェインであった。
【後編では、マクヴェインの日本での生活と、1876年に日本を離れた後の足取りを紹介する。】
アイオナ島情報ページ(スコットランド観光局):https://www.visitscotland.com/info/towns-villages/isle-of-iona-p246471
文/ケリー狩野智映(スコットランド在住ライター)
海外在住通算28年。2020年よりスコットランド・ハイランド地方在住。翻訳者、コピーライター、ライター、メディアコーディネーターとして活動中。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。