文・写真/上野真弓(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)

イタリアの大統領官邸、クィリナーレ宮殿(上野真弓撮影)

イタリア共和国大統領官邸、クィリナーレ宮殿の大広間の壁には、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて「独眼竜」の異名で活躍した初代仙台藩主、伊達政宗の家臣、支倉常長が率いた慶長遣欧使節団の姿が描かれている。
400年前に海を渡ってローマを訪れた日本人の姿が、どうしてここに描かれたのだろう。
まずは、この宮殿の歴史から見ていこう。

教皇グレゴリウス13世の肖像画(写真右側、個人蔵、上野真弓撮影)

この宮殿は、16世紀後半、ローマが教皇庁領だった時代に教皇グレゴリウス13世が夏の居城として建設させ、その後何世代もかけて完成されたものである。
グレゴリウス13世といえば、グレゴリオ暦と呼ばれる新暦を導入したことで知られ、支倉常長の少し前、16世紀末に欧州へ渡った、「クワトロ・ラガッツィ」と呼ばれる4人の少年を中心とした天正遣欧少年使節団に謁見した教皇である。

ナポレオンの作った図書室(上野真弓撮影)

クィリナーレ宮殿は、建設以来、教皇居城や教皇庁政府の役所として使われていたが、19世紀初頭にナポレオン軍に占領されると、皇帝ナポレオンの居城となった。
しかし、それも数年のことで、1814年には再び教皇のもとへ戻る。

大統領の執務室の1つ(上野真弓撮影)

ところが、1870年のイタリア統一でイタリア王国が誕生し、ローマを首都と定めると、国王の公式な宮殿となってしまう。

そして、その王政も短命に終わる。第二次世界大戦後の国民投票で1946年に王政が廃止されたからだ。その後、この宮殿はイタリア共和国大統領官邸となり、現在に至っている。

大統領護衛騎馬憲兵(写真右側、上野真弓撮影)

官邸を守るのは、「コラッツィエリ」と呼ばれる大統領護衛騎馬憲兵だ。身長190cm以上あることが条件の1つだけあって、みな背が高い。

クィリナーレ宮殿の大広間(上野真弓撮影)

宮殿の大広間の壁の上部には、17世紀初頭の各国大使の姿が描かれているが、ここに、伊達政宗の家臣、支倉常長が率いた慶長遣欧使節団の姿が描かれているのだ。

時は大航海時代。ポルトガルはアフリカ大陸の最南端、喜望峰を通る東回り航路により、インド、マラッカを拠点にアジアと貿易をしていた。出遅れたスペインは西回り航路でアメリカ大陸を得て、その後フィリピンのマニラを拠点としてアジア進出に力を入れていた。

それにあわせて、ローマ・カトリック教会も、16世紀初頭に勃発した新教徒の宗教改革に対抗してアメリカ大陸やアジアでの布教活動に力を入れるようになっていく。

ちなみに、日本人なら誰でも知っているフランシスコ・ザビエルはポルトガル人でイエズス会創設メンバーの1人である。ポルトガル王の依頼でインドのゴアに赴いた際には、当然ながら東回り航路を使っている。
天正遣欧少年使節団も東回り航路でローマへ渡っているが、慶長遣欧使節団は、スペイン人のフランシスコ会宣教師ソテロの勧めだったことから、西回り航路をとっている。
布教活動において、イエズス会とフランシスコ会は犬猿の仲だったという。

伊達政宗は、幕府より許可をとり、スペイン領メキシコとの通商交渉と仙台領内へのフランシスコ会修道士の派遣要請のため、宣教師ソテロと家臣の支倉常長が率いる使節団をスペイン国王フェリペ3世とローマ教皇パウルス5世のもとへ送った。だが、その道のりは長かった。

慶長遣欧使節団の行程(上野真弓作成)

1613年10月(慶長18年9月、旧暦)、サン・ファン・バウティスタ号(洗礼者聖ヨハネ号という意味)で石巻を出航し、偏西風と北太平洋海流に乗って3ヶ月後にスペイン領メキシコのアカプルコへ入港。総勢180名の使節団のうち30名だけが陸路でメキシコシティ、ベラクルス、ハバナを経て、スペイン艦隊に乗り込み、1年後、宣教師ソテロの故郷セビリアへ入った。

1615年1月にはマドリッドでスペイン国王フェリペ3世に謁見し、2月には国王臨席のもと、常長は洗礼を受ける。洗礼名は、ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモンである。ローマ到着は1615年10月。

11月にはローマ教皇パウルス5世に謁見し、市民権と貴族の位を認めるローマ市公民権証書を授与される。
そして、1616年1月にセビリア、1617年7月にはアカプルコへ向かい、1618年に出航後、同年8月、フィリピンのマニラに到着。

常長が日本へ帰国したのは、出航から7年後の1620年の9月(元和6年8月)であった。

支倉常長の肖像画の模写(個人蔵、上野真弓撮影)

常長ら一行は、1615年10月25日にローマ到着後、10月29日に華麗な衣装を身にまとい入市式のパレードをしている。
この歓迎式典には、おそらく大勢のローマ市民が集まり、その様子を眺めたのだろう。
珍しいものを見るように常長の一挙一動に注目していたに違いない。
その証拠に、ヴァティカン図書館には常長が鼻をかんだ懐紙が残されている。ハンカチで鼻をかむ習慣のある西洋人には、使い捨ての紙を使うことが新奇に映ったようだ。

クィリナーレ宮殿大広間の壁画(上野真弓撮影)

常長たちがローマ滞在中、クィリナーレ宮殿の大広間では、ちょうどアゴスティーノ・タッシが壁画制作をしているところだった。

当時のローマで、サムライの姿はエキゾチックに映ったことだろう。華麗な衣装に気品ある立ち振る舞い。格好の材料だ。東洋からの珍しい客人の姿を壁画に残そうと考えたのは容易に想像できる。

支倉常長他5名を描いたフレスコ画(上野真弓撮影)

壁に描かれているのは使節団のうち6名である。前列左が常長、その右にソテロ、後列4名の日本人は、常長とともにローマ公民権を与えられた滝野嘉兵衛、伊丹宗味、野間半兵衛、小寺外記、いずれも各地の有力な商人でキリスト教の信者だった。

しかし、はるばる欧州まで行きながら、通商交渉は成功しなかった。既に日本国内でキリスト教の弾圧が始まっていること、常長の主君が藩主にすぎないことなどが、スペイン側に伝わっていたからだ。

常長が1620年に日本へ帰国した時、キリスト教は禁教となっていた。その2年後、常長は失意の中で死去する。
ソテロに至っては、常長の亡くなった年にマニラから日本へ密入国をしようとして捕らえられ、1624年に殉教している。

鎖国に向かっていた日本の状況を考えれば、ミッションが成功しなかったのも無理はない。しかし、当時の大国スペインを相手に堂々と交渉し、ローマ教皇より公民権と貴族の位を授与されたことは賞賛に値するのではないだろうか。

400年も前に、何年もかかって海を渡り、ローマの歴史に刻まれた日本人がいたことは、縁あって現在ローマに暮らす私には実に感慨深いものがある。

クィリナーレ宮殿見学予約のHP
https://palazzo.quirinale.it/visitapalazzo/prenota.html
ツーリングクラブ・イタリアのボランティアによる1時間20分のガイドツアー(イタリア語のみ)は無料。手数料だけチャージされる(イタリア語のみ)。コロナ禍にある現在、見学は中止されている。

文・写真/上野真弓 イタリア在住ライター、翻訳家。1984年12月よりローマに暮らす。訳書に「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」、「カラヴァッジョの秘密」「ラファエッロの秘密」(いずれも河出書房新社)がある。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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