■祖父・三成の汚名をそそいだ江戸城登城
江戸城に登城した八兵衛は、老中等幕閣と面会し、蝦夷地での状況を報告し、さらには幕府から受けた扶持米の礼を藩主に成り代わって述べた。津軽信政の義兄で若年寄だった土井利房からは、松前への出兵と、そこからもたらされる八兵衛からの情報に対して、老中たちが「残すところのない働き」であると評価したことを告げられた。
その言葉を、八兵衛はどのような思いで聞いただろうか。脳裏には、祖父・石田三成や、遠く津軽まで落ち延び、侘しく没した父・源吾のことがよぎったであろうか。
関ヶ原合戦から69年。徳川将軍は4代家綱の時代となっていた。江戸城での幕閣との対座は、八兵衛にとって祖父・三成の汚名をそそぐ場となったのである。
そして、幕閣による杉山八兵衛に対する評価は、同時に、弘前藩に対する幕府の評価、そして弘前藩自身の自己評価となった。
当事者である松前藩以外に、幕府の命に沿って唯一軍事的行動をとることで、「北狄の押」を全うしたという弘前藩の自己認識は、前述のとおり、『津軽一統志』などによって、弘前藩の歴史に刻み込まれていった。そして、その実行者が杉山八兵衛だったのである。
■世代を超えた三成末裔の活躍
再び、明治2年に話を戻すと、杉山上総が統率した弘前藩兵は、木村杢之助(きむら・もくのすけ)隊の活躍で、函館戦争の分水嶺ともなった矢不来(やふらい)の戦いにおいて台場を攻略するなどの軍功をあげた。
その際、政府軍征討総督の太田黒亥和太(おおたぐろ・いわた/維信・熊本藩士)は、それまで満足な軍功をあげてこなかった弘前藩に対し、「貴藩は従来、北門鎖鑰(ほくもんさやく/北の守りの要)なのであるから、その任を果たす一大好機がきたではないか」と叱咤した。
その叱咤を受けた木村の奮闘で、弘前藩は矢不来の戦いを勝利に導く活躍をみせたのであるが、「弘前藩は『北門鎖鑰』なのだ」という認識が、遠く熊本藩においても存在したことに注目したい。
これは、杉山八兵衛の功績が、上総の時代まで脈々と、自他ともに認める弘前藩の実績として認識されていたということなのである。
弘前藩のよりどころとなった認識の形成に、杉山八兵衛は、実際の行動によって大きく寄与し、その認識は、200年後の上総の時代にも生きていた。八兵衛の功績を、上総は函館戦争において、さらに補強したのだといえよう。
他にも弘前藩を代表する人材を輩出した家は多いが、こと、津軽海峡を渡って実際に軍事を司り、自他ともに認める功績を挙げ得た家は杉山家だった。このことを顧みると、津軽家が危険を顧みず三成の遺児を匿(かくま)ったことは、後にいたって大きく報われたというべきではないだろうか。
維新後、上総は新たに設置された弘前県・青森県のために様々に貢献するが、新たな時代へかける意気込みは、豊臣政権の運営に尽力した先祖・石田三成をほうふつとさせるものであった。さらに、上総の子・燾之進(とうのしん)は、教育者として活躍し、藩校を前身とする東奥義塾の塾長などを務め、長く郷土の子弟教育に献身した。
このように、石田三成の主君や公へ尽くした一生は、姿やかたちを変えつつも、家風として代々杉山家に伝わったといえるのではないだろうか。
文/小石川透(弘前市文化財課)