「権力が移ったわけではなく、若い将軍を集団で支えていた」

建久元年(1190)、前年の奥州合戦で藤原泰衡を滅ぼした源頼朝は、ついに上洛を果たし、後白河法皇に謁見する。『あづまにしき絵集 源頼朝公上洛之図』二代歌川広重/国立国会図書館蔵

鎌倉幕府とは、どんな政権だったのか。

これまでは、京都の朝廷(公家)に対抗して打ち立てた、鎌倉の武家政権だと考えられてきた。だが実際は、それほど大きく対立していたわけではない、と歴史学者の佐多芳彦さんはいう。

「その証拠は、頼朝が着ていた『水干』にあります。普段は直垂を着ているのですが、朝廷からの使者が来ると、必ず水干に着替えました」

水干は、殿上人から見ると、下々の服装──下級官人のユニフォームだった。朝廷の警護を任されていた武士が着る服だったのである。

源頼朝像と伝わる鎌倉時代13~14世紀の彫像。像高90.3cm。
『木造伝源頼朝坐像』(重要文化財)/東京国立博物館
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)

「朝廷の使者に対し、水干で応対するということは、朝廷のしもべである、という意思表示です。これが頼朝の変わらぬ姿勢だったのでしょう」(佐多さん)

実際、征夷大将軍という役職も、朝廷から任じられたものだった。また、御家人が希望する官位も、将軍が朝廷に取り次いでいた。この取り次ぎが、将軍の権威のひとつになっていたのである。

源平の争いの渦中にありながら、長く権力を維持した後白河法皇。
『隆信/後白河法皇影』楽真齋(写)/東京国立博物館
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)

13人の “合議制” の真実

鎌倉幕府を開いた頼朝はしかし、正治元年(1199)、53歳で亡くなる。最新の研究では、糖尿病だったといわれる。大河ドラマの中では、死ぬ直前、やたらと水を飲みたがったが、糖尿病をにおわせるためだろう。

跡を継いだのは、嫡男の頼家だった。ここに、ドラマのタイトルにもなった宿老13人による合議が始まる。

「これまでの研究では、北条時政やその息子の義時、比企能員(ひきよしかず)ら有力御家人13人が、2代将軍・頼家から権力を奪い、合議制に移行したと考えられてきました。ところが研究が進むと、13人全員でその都度、合議をしていたわけでもなく、権力が13人に移ったわけでもないことがわかってきました。おそらく、若い将軍を集団で支えていたのでしょう」(歴史学者・坂井孝一さん)

なぜ通説が覆えされたのか。

そこには『吾妻鏡』という歴史書の存在があった。13人の合議制の根拠もこの史書にある。同書は、鎌倉幕府が編纂した唯一の史書だ。治承4年(1180)から文永3年(1266)まで記されており、成立は14世紀初頭といわれる。

「『吾妻鏡』は、得宗・北条家の命によって編まれています。つまり、北条家にとって都合の悪いことは書かれていないのです。これを当時の公家の日記や古文書と照らし合わせて見ていくことで、実際に何があったかが、だんだんとわかってきたのです」(同前)

実朝の暗殺で歴史が動く

3代将軍・源実朝までは、鎌倉と京都の仲は安定していた。政治は朝廷、軍事は鎌倉、という棲み分けもできていた。

それが崩れたのは、実朝が公暁に暗殺されてからである。

「実朝の死で、執権・北条義時に力が集中しました。それを良く思わなかった後鳥羽上皇が、義時を排除し、別の人間を執権につけようと画策しました。これが『承久の乱』の発端です。この乱に鎌倉側が勝利したことで、朝廷と幕府の力関係が逆転。真の武者の世が訪れます」(同前)

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※この記事は『サライ』本誌2022年11月号より転載しました。

 

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