頼朝同腹の弟・希義のものと伝わる介良の無縫塔。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、平家討伐のために挙兵した源頼朝(演・大泉洋)のもとに遠江池田宿(現在の静岡県磐田市)の遊女を母とする範頼(演・迫田孝也)、常盤御前を母とする三兄弟(今若、乙若、牛若)の全成(演・新納慎也)、義円(演・成河)、義経(演・菅田将暉)ら4人の弟が集結する様子が描かれた。

兄の挙兵の力にならんと集結・団結した兄弟たちだが、義円が平家との合戦で討死。平家追討に功あった義経も頼朝と仲違いした後に、奥州平泉で討死の憂き目にあう。さらに同じく平家追討軍の大将を務めた範頼も富士巻狩り後の混乱の中で、謀反の嫌疑をかけられ誅された。そして、最後まで残っていた全成も、頼朝急死後の権力闘争に巻き込まれる形で斬首されてしまう。

俗に源氏は「血塗られた一族」とも称されるが、頼朝を含む5人の兄弟たちの末路があまりにも切ない。

実は、劇中に登場はしなかったものの、頼朝には源希義(まれよし)というもうひとりの弟がいた(※)。母は熱田大宮司藤原季範の娘で、頼朝と母を同じくする唯一の弟だった(ほかに同腹の妹に坊門姫=一条高能の母)。

『平治物語』によると平治の乱後、駿河国香貫(現在の沼津市)にいた希義は、母方の叔父によって平家側に引き渡された。「実名がない人物は流罪ができない」という慣習があったため、流罪の際に「希義」と名づけられたのだという。当然元服前で年齢は9歳と伝わる。

『平治物語』はこう結ぶ。〈希義は南海土佐国。頼朝は東国伊豆国。兄弟、東西にわかれ行く。宿執のほどこそむざんなれ〉――。

土佐介良(けら)荘(現在の高知市介良)に流された希義は、在地の夜須行宗(やすゆきむね)らと厚誼を結び、土佐冠者と称される若武者に成長した。

源氏の挙兵と土佐の希義

以仁王の令旨によって、治承四年(1180)5月に源頼政が挙兵すると、伊豆の頼朝、土佐の希義の周囲も慌ただしくなる。伊豆では平家方の伊東祐親(演・浅野和之)、大庭景親(演・國村隼)らに対し、頼朝が先手を打って挙兵したものの、石橋山の合戦で大敗。九死に一生を得て、安房に逃れて再起を期した。

一方、土佐の希義。『平治物語』の記述をまとめる。頼朝の挙兵を聞き、〈醍醐の悪禅師、八条の卿君〉(全成、義円のこと)が関東に下っていく中、平家は土佐の希義を討つことを現地に命じた。討手に攻められた希義は、〈父の為に、毎日、法華経よむが、今日はいまだよまず。しばらくの暇をのべよ〉と言い残して持仏堂で自害したという。

鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述は、『平治物語』とは異なる。

頼朝のように、先手を打っての挙兵ができず、平家方の追手蓮池家綱らに攻められた希義。かねてからの約定の通り、味方の夜須行宗を頼って夜須荘を目指したが、途中の年越山(現在の南国市に比定)で討たれてしまう。「希義討たれる」の報を聞いた行宗はいったん土佐から紀伊へ船で逃れたという。

 石橋山の頼朝、年越山の希義に思いを馳せたのは、法政大学名誉教授の河内祥輔氏だ。河内氏が北大教授時代の1990年に著した『頼朝の時代 一一八〇年代内乱史』から引用する。

〈こうして希義の挙兵は成功しなかったのであるが、この話は頼朝の場合と全く瓜二つなのが興味深い。夜須行宗は三浦一族にあてはめることができる。両者の行動はそっくりである。年越山はまさしく石橋山である。頼朝も石橋山で死ぬはずの身であった。希義も、もし年越山から生還し、行宗とともに紀伊(ママ)を脱出していたならば、紀伊・土佐を拠点とする一次支配権をつくることができたかもしれない〉。

同腹の兄弟の明と暗。もしかしたら、東国の頼朝が討たれ、土佐の希義が平家討伐の最前線に立っていたかもしれないと思うと感慨深い。

その後も度々『吾妻鏡』に登場する「夜須行宗」

御曹司希義と厚誼を結んでいた夜須行宗は、頼朝と北条時政、あるいは三浦一族と同様の関係だったと思われる。希義亡き後も、度々その動向が『吾妻鏡』に登場する。

まずは文治三年。壇ノ浦合戦に源氏方として参戦した夜須行宗は平家方の岩國兼秀ら2名を捕虜としたという。戦後に恩賞を得るため、そのことを上申すると、なんと梶原景時が「合戦の際に夜須という武者はいなかったはず。岩國らは自ら降伏してきた」と難癖をつけてきた。驚いた夜須行宗だが、同じ船に乗っていた御家人に証言してもらい、無事恩賞を得ることができたという。『吾妻鏡』には、虚偽の証言をした梶原景時への懲罰があったことも記される。なんと鎌倉の道路整備の工事を命じられたというから面白い。

夜須行宗が再度『吾妻鏡』に登場するのは、建久元年7月。希義が討ち取られた後、身命を惜しまず、仇の蓮池家綱らを討ちとるなど、度々功績のあったことを認められ、本領安堵の下文を頼朝から与えられたという。

希義を討った蓮池らの討伐には、源頼政の孫にあたる源有綱を大将に任命し、夜須は現地の案内をしたと伝わっている。

頼朝と希義を結ぶ興味深い話はほかにもある。

流人時代の頼朝が走湯山伊豆山権現に帰依していたことは知られている。その走湯山が鎌倉時代に、五堂灯油料船を五十艘管轄していたことに触れた網野善彦氏は、〈この船はたぶんかなり西のほうまで行っていると思います。伊豆山神社、走湯山は土佐の介良荘という荘園を持っていますから、船はそこまで行っていることは確実です〉(『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』ちくま学芸文庫)と語っている。希義が流された介良荘が、伊豆山権現の別当だった密厳院領というのはまさに奇縁。伊豆山権現を仲介して、伊豆の頼朝と土佐の希義の間に何かしらの交流があったかもしれないと想像してしまうのだ。

希義の菩提を弔う寺院を建立した頼朝

希義の伝墓所のある西養寺跡への入口。

さて、平家方に討たれた希義のその後に戻ろう。

当初、打ち捨てられたままだった希義の亡骸を手厚く葬ったのは介良荘の僧琳猷(りんゆう)。彼は、西海で源平最後の戦いが繰り広げられるさ中の元暦2年(1185)3月、希義の遺髪を携えて鎌倉に赴き、伊豆山権現の僧の仲介で頼朝に希義の最期を報告したという。

同腹の弟の死を聞いた頼朝は「弟の魂に触れた思いがする」と琳猷に謝意を表したうえで、希義の菩提を弔うために「一箇梵宇」を建立することを命じた。

走湯山密厳院西養寺と名づけられた寺院の完成は文治3年(1187)。『吾妻鏡』には頼朝が同寺に供料米68石を与えたことが記されている。さらに、頼朝に西養寺建立を命じられた民部大夫行景は、同年土佐から鎌倉に船で使者を送ってきた。弓百張と魚や鳥の干物を献上したうえで、希義の供養を務める琳猷を丁重に扱うよう頼朝から命じられたことを、遺漏なく実行している旨の書状を送って来たという。頼朝にとって、希義追善が重要事項であったことが伝わってくる。

この文治3年は、頼朝と決裂した末弟義経が京を追われて奥州への逃避行を開始した時期と重なる。平家追討に功あった義経に追手をつかわす一方で、すでに故人となった同腹の弟を追善する。頼朝の胸にはどのような思いが去来していたのだろうか。

840年経った現在も続けられる祭祀

高知市中心部を走る路面電車のとさでん交通 後免線鹿児(かご)または船戸駅下車で徒歩約24分。介良川沿いの住宅地に西養寺の跡がある。規模の大きな寺であったことが伺えるが、江戸期の大火で衰亡し、明治の廃仏毀釈の際に廃寺となったという。

住宅地と畑の間の細いあぜ道を抜けると、鬱蒼とした木々を分け入るように丘への登り道が続いている。その傍らには、小松石でできた歌碑があり、山内一豊を初代とする土佐山内家18代当主豊秋氏の歌碑がある。なぜ、山内氏か?そうした疑問に答えるように歌碑の横には「土佐藩主山内氏と源氏とのかかわり」という案内板がある。

〈初代土佐藩主山内一豊の祖は藤原鎌足に出、平将門征伐の藤原秀郷に続き、その六代後の首藤助通は源頼義の郎党七騎の一人に数えられます。更に其の三代後の俊通は四代目俊綱と共に北鎌倉の山内庄を領し初めて山内氏を称します(以下略)〉

『鎌倉殿の13人』に登場した山内首藤経俊(演・山口馬木也)はこの俊通の子だ。山内氏は、鎌倉と土佐、頼朝と希義とを結ぶ存在ともいえる。

〈はかなしや同じ梢の花ながら咲かで朽ちにし跡のしるしは〉

血を分けた兄弟でありながら、かたや征夷大将軍となった頼朝に対し、都からも鎌倉からも遠く離れた土佐で討たれた希義の無念が詠われている。

歌碑の小松石は、石橋山の戦い後に頼朝が房総に向けて船出した真鶴で産する名石を取り寄せたものだという。

希義について詠んだ土佐山内家18代当主豊秋氏の歌石碑。

平成になって復活した「まれよっさん」のおまつり

歌碑をあとに丘を登っていくと、山肌に希義の墓地と希義を祀る希義神社が鎮座する。インターネットで検索した際に掲示された案内板に記されていた「源希義公を顕彰する会」代表の近森正博氏に案内いただいた。近森氏は『戦国朝倉合戦 本山一族の興亡』などの著書を持つ郷土史家でもある。

近森さんによると、地元では親しみをこめて「まれよっさん」と呼ばれた希義。戦前までは、年に一度、大きなおまつりがあり、菩提が弔われていたという。

「まれよっさんのお祭りは、戦後は長く絶えていました。地元の介良村が昭和47年に高知市と合併した影響もあったかもしれません。しかし、平成に入ってから、私たちが『源希義公を顕彰する会』を結成して、復活させたのです」

「まれよっさん」のおまつりの復活に尽力したのが、近森さんらの顕彰会。平成6年から翌年にかけて史跡としての整備が行なわれ、わかりやすい案内板が設置されるとともに希義の顕彰活動が行なわれた。周囲に点在する「西養寺跡無縫塔」「清和天皇家系図」などの案内板はこのとき整備されたものである。

「まず、希義の墓と鎌倉の兄頼朝の墓所の土と石を交換しました。果たせなかった同腹兄弟の再会です。鎌倉の鶴岡八幡宮からも神職さんがいらして、一緒に祭祀を行ないました」

顕彰会の方々の整備が行き届いた中で、希義の墓所と伝承される墓石の前に立つ。1994年に高知市有形文化財に指定された無縫塔だ。

案内板には、無縫塔の形状から〈県内における数少ない室町時代の無縫塔のひとつと思われる〉と記されている。さらに、〈この無縫塔が誰のために建てられたのかは明らかではない。『吾妻鏡』には、西養寺が源頼朝の弟希義の菩提を弔うために建てられたとある。この地が『西養寺文書』に記される西養寺跡に当たることから、地元ではこの無縫塔を源希義の墓として祀り伝えている〉と続く。

実際の被葬者と異なる人物の墓とされる古墳や塔の様式が時代と合わなくても「〇〇の墓」として伝承されることがままある中で、調査結果と真摯に向きあう正直すぎる記述に感動すら覚え、「きっと室町時代に改葬したのではないか」と解釈したくなる。いや、もう長年地域の人たちが希義の墓として伝えてきたのだから、この場所が希義の墓でいいではないかとも思う。

俗世の喧騒とはまったく無縁の静かに時が刻まれる空間で、改めて、無縫塔に向きあう。

「もし、母を同じくする希義が無事に鎌倉に馳せ参じていたら頼朝は、希義をどう処遇しただろうか」「希義は平家討伐軍の大将になったのだろうか」「義経らと同様に頼朝と決裂することになったのだろうか」「『鎌倉殿』の13人に登場したとしたら誰が演じただろうか」などと、さまざまな思いが頭をよぎる。

無縫塔と隣接して、希義を祀る「希義神社」の社殿が鎮座する。鳥居にはちょうど100年前の「大正十一年(1922)」の年月日が刻まれている。地元の国会議員が参列する年もあるなど、毎年欠かさず「まれよっさん」の祭祀が続けられてきたが、顕彰会会員の高齢化もあり、参加者も減少傾向にあるのだという。

『鎌倉殿の13人』が放送された今年も12月に源希義墓前祭が斎行される。『サライ』歴史班では、墓前祭に参列した模様に加え、希義の子孫と伝わる土佐の名門一族についても改めてリポートしたい。

例年12月1日に近い土曜日に「まれよっさん」のまつりが行なわれる希義神社。鳥居奥中央辺りに見える案内板の下に、鎌倉から運ばれた頼朝墓所の土と石が置かれている。

(※)頼朝と希義の間に「義門(よしかど)」という早世した男子がいたという史料もあるが詳細は不明。

構成/『サライ』歴史班

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