源頼朝(演・大泉洋)と北条政子(演・小池栄子)の間には大姫、頼家、三幡、実朝の4人の子が誕生した。父は鎌倉殿として坂東武士の崇敬を集め、建久6年の上洛では、現代でいうところの家族旅行も楽しんだ。家族の末路がどうなったかはともかく、いったんは栄耀栄華を極めたことには違いあるまい。
母親が政子ではないもうひとりの男子
この一家には、実は、母親が政子ではないもうひとりの男子がいた――。創立期鎌倉幕府将軍家の裏面史を追う。
『鎌倉殿の13人』では、北条政子が後の頼家(演・金子大地)を身ごもっているさ中の寿永2年(1182)、頼朝が亀の前(演・江口のり子)という侍女と懇ろになっていたことが、政子に露見したことが描かれた。劇中では、政子の命で亀の前の屋敷が派手に破壊されるシーンが登場したが、この事件は『吾妻鏡』に描かれた鎌倉幕府の正史である。
【文治二年(1186)二月二十六日】政子が不快感を顕わにした男子誕生
御家人の間に、亀の前事件の苦い記憶が濃厚に残っていた文治2年(1186)2月。鎌倉でひとりの男子が誕生した(※1)。父は鎌倉殿源頼朝。『吾妻鏡』には〈御母は常陸介藤時長の女也〉とある。御所に伺候する侍女で、頼朝と関係を持つに至ったようだ。さらに〈御台所 御厭の思い甚だし〉と記され、政子が強烈な不快感を隠さなかったことがわかる。
そのため、鎌倉殿の男子(この段階では、万寿につぐ次男)であるにもかかわらず、その誕生を祝す儀式はまったく行なわれないという異例の事態となった。そればかりか、この男子の幼名すら伝わっていないのだ。
【建久二年(1191)一月二十三日】政子の怒りで、頼朝愛妾「鎌倉追放」
頼朝男子を生んだ愛妾は『吾妻鏡』2回目の登場時には大進局(だいしんのつぼね)と記録されている(※2)。男子誕生からすでに5年経過したこの段階で、大進局が上洛し、伊勢国に領地を与えられることになったという。
『吾妻鏡』には、事が露見し、〈御台所 殊に怨み思ひ給ふ之間〉と記載。大進局に対する政子の怒りの感情が鎌倉を揺るがしたことがわかる。しかし、この時、政子に何が露見したのかは伝わっていない。もしかしたら政子は大進局親子はとっくに鎌倉を離れていたと思っていたのだろうか。
いずれにしても、大進局の「鎌倉追放」が決まった。
大進局が鎌倉を退去した後、政子は頼朝との子(千幡/後の実朝)を懐妊する。
【建久三年(1192)四月二日】懐妊した北条政子 御着帯の儀
懐妊した政子の「御着帯の儀」が行なわれる。『吾妻鏡』には源氏一門の平賀義信の妻が帯を持参。頼朝が帯を結んだとある。そして、鶴岡八幡宮寺の供僧に今日以降、毎日安産祈願をするように命じられた。
【建久三年(1192)四月十一日】政子の怒りを恐れて、若公の乳母が決まらない
政子の「着帯の儀」が行なわれて10日も経たぬうちに、大進局が生んだ若公(『吾妻鏡』の呼称)の乳母を決める記事が登場する。小野成綱、法橋昌寛、山田重弘らに命じたところ、全員固辞したというのだが、その理由に驚かされる。『吾妻鏡』は〈御台所の御嫉妬甚だし之間、彼の御気色を畏怖の故なり〉と、政子の嫉妬が強烈で、御家人らは政子の怒りを買うことを恐れたことを正直に記す。
亀の前事件の記憶が御家人たちに強烈に刻まれていたことを示唆する記事ではないか。そして引き受け手のなかった乳母に選ばれたのは、長門景国。『吾妻鏡』は長門が供をして若公を京都に上らせることになったことを記す。この段階で政子のお腹の中の子の性別はわからなかったと思われるが、頼朝の血を引く男子の存在が邪魔になったのだろう。
【若公上洛。鎌倉最後の夜を頼朝と過ごす。次ページに続きます】