国民的ナイフ『肥後守』は男子にとっての「武士の刀」だった【にっぽん刃物イズム第4回】

文・写真/かくまつとむ

ある年齢以上の紳士方なら「懐かしいね~。子供の頃によくポケットに入れていたよ」と、たいてい反応する刃物が『肥後守』(ひごのかみ)です。

名前には“肥後”とついていますが、熊本県とはなんの関係もなく、その原型は明治時代に鹿児島県で製造されていた、舶来品をモデルにした折り畳みナイフなのだそうです。

事の始まりは、兵庫県三木市の卸問屋がそれを持ち帰り、地元業者に同型のナイフを作らせたこと。要するに焼き直しです。

構造が簡単なので、何よりも安価。はじめはさまざまな名前で売られていたようですが『肥後守』という銘の売れ行きが飛び抜けてよかったことから『肥後○×』という名の製品が乱立。この形状をしたナイフの代名詞となりました。

今でも地方の金物店や古道具市を覗くと、こうした“あやかり肥後守”を見ることができます。

現在、肥後守の商標は三木市の業界団体が所有しますが、この銘で製造を続けているのは、永尾カネ駒製作所1軒だけです。

肥後守は、金属板をU字に曲げた鞘と、リベット留めの芯金、先のとがったブレード(両刃タイプ)の3部品でできています。かつては鋸や鎌もついた三徳式のものもありました。

折り畳み式ナイフは、ロック機構によって開いた刃が固定されるものが多いのですが、肥後守にはそれがありません。チキリと呼ぶブレード後端の突起を、親指で押さえながら使います。

安全性が不十分だという指摘は昔からありましたが、使い方の基本がわかれば、まずケガをすることはありません。造りがシンプルな分、子供のお小遣いでも買えるのが人気の秘密でした。

かつての男の子にとっては武士の刀に匹敵する宝物で、木や竹で遊び道具を作るときには欠かすことのできない道具だったといっても過言ではありません。学校に持っていく鉛筆も肥後守で削っていました。

軸が緩んだら金鎚で叩いて修正。切れ味が落ちたと感じたら砥石で研ぐ。

昭和35年に起きた右翼青年による浅沼稲次郎代議士の刺殺事件をきっかけに、青少年に刃物を持たせないようにしようという運動が広がりました。そんな動きがあっても、肥後守は絶大な人気を誇りました。

金物屋、文房具屋、駄菓子屋、釣具屋……。昭和35年生まれの私の記憶では、子供の集まる店にはたいてい肥後守が売られていたものです。

しかし、昭和も50年代に入ると、子供たちは刃物を使った外遊びをしなくなりました。背景には、浅沼事件以降の長きにわたる刃物追放運動の影響もあると想像しますが、電動鉛筆削り器、シャープペンシル、テレビ、室内ゲーム、塾・習い事など、子供たちの「時間」と「場」を取り巻く社会環境が大きく変わった時代だったことも見逃すことはできません。

いま、肥後守文化の灯を守っているのは、少年時代に使ったことのあるシニア・コレクターたちですが、一部では学校教育の中でも使われています。

たとえば長野県池田町の会染小学校では、30年以上前から子供たちに鉛筆を肥後守で削らせ、切れが鈍った時は砥石で刃を研ぐことを習慣づけています。

入学時にはPTAから全員にマイ肥後守がプレゼントされる。

新入生には上級生が使い方を教えるという伝統も続き、地域ぐるみの特色教育として注目されています。

都会の私学の中にも、子供たちに肥後守を使わせている学校があります。

慣れた手つきで鉛筆を肥後守で削る会染小学校の子供。

頭の中で思い描いたイメージを、手に握った刃物を通じて形にする。実存しない創造の産物を実際にモノとして再現できるのは、人間ならではの能力です。

子供たちは短くなるまで鉛筆を使う。削り方には個性が出るが、迷いのない力強い切り口が印象的。

あらゆる装置がインターネットでつながる社会が目の前まで来ていますが、そんな時代だからこそ、ナイフという道具の存在意義について、もう一度考えてみませんか。

文・写真/かくまつとむ
かくまつとむ(鹿熊勤) 自然や余暇、一次産業、ものづくりなどの分野で取材を続けるライター。趣味は日本の刃物文化の調査、釣りと家庭菜園&酒。『サライ』には創刊号から参画。著書に『鍛冶屋の教え』(小学館)、『日本鍛冶紀行』(ワールドフォトプレス)、『糧は野に在り』(農山漁村文化協会)など。立教大学兼任講師。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で