はじめに-三浦義澄とはどんな人物だったのか

三浦義澄(みうらよしずみ)は、源頼朝の挙兵に初期から加わった、相模国(現在の神奈川県)の武将です。壇ノ浦の戦いや奥州藤原攻めなど、各地に転戦して鎌倉幕府の成立に尽力しました。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、“十三人”の一人で、三浦党の惣領(演:佐藤B作)として描かれます。

目次
はじめにー三浦義澄とはどんな人物だったのか
三浦義澄が生きた時代
三浦義澄の足跡と主な出来事
まとめ

三浦義澄が生きた時代

三浦義澄が生きた時代は、源平合戦の開始から終結、鎌倉幕府の成立、十三人の合議制の設置など、まさに平安末期から鎌倉初期の激動の時代でした。その中で、源氏に仕える武士団である三浦氏に生まれた義澄は、頼朝と篤い信頼関係を築きます。

三浦義澄の足跡と主な出来事

三浦義澄は、大治2年(1127)に生まれ、正治2年(1200)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

源氏に仕える三浦氏に生を受ける

平安末期、武士の台頭により、東国には多くの氏族が誕生します。その一つである三浦氏は、相模国三浦荘衣笠(現在の神奈川県横須賀市)に本拠をかまえる大きな武士団でした。この「三浦一族」の始まりは、前九年の合戦での働きの恩賞として三浦の地を与えられたことだとされています。

三浦義澄は、相模国の在庁官人として国務に参画していた三浦義明(よしあき)の次男として生まれました。幼名は「荒次郎」(あらじろう)と言います。

衣笠城合戦

治承4年(1180)になると、源頼朝が伊豆で挙兵します。石橋山の戦いにて頼朝勢に合流しようとした三浦一族ですが、暴風雨により出陣が遅れ、頼朝の敗走を知り、衣笠城に引き返すことになります。

その帰路、鎌倉・由比ガ浜で平家方の畠山重忠(しげただ)と戦い、これを破ります。しかし、三浦氏の跡を追った重忠は河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長(しげなが)らに加勢を依頼し、衣笠城を攻めて落城させました。この際、父・義明は義澄らを闇夜に乗じて城から脱出させ、自らは翌早朝に河越重頼らに討たれました。

義明は、自らが頼朝の捨石となる代わりに、源氏再興の暁には子孫が要職に就くことを暗に頼朝に願ったのでした。衣笠城を脱出した義澄らは、怒田城(現在の久里浜あたり)から安房(千葉県)へ向けて船を出し、頼朝と合流することとなります。

同年9月には、安房国の長狭常伴(ながさつねとも)が頼朝の居所を襲撃しようとしましたが、義澄は事前に察知してこれを敗走させています。その後、頼朝とともに上総・下総・武蔵を経て、鎌倉に入ったのでした。この後頼朝は、義明の願い通り、三浦一族を重臣として重用していきます。

源平合戦における主要な合戦に従軍する

同年10月、駿河国で起こった「富士川の戦い」の帰途にて、義澄は相模国府で頼朝から本領安堵(ほんりょうあんど)のうえ、新恩の所領を与えられます。本領安堵とは、自分の本領、すなわち代々受け継いだ土地の所有権を公認されることを指します。また、父・義明が叙されていた官位であり、その通称であった「三浦介」(みうらのすけ)の世襲を許可されます。頼朝からのこうした厚遇は、義澄の才覚が高く評価されていた表れだといえるでしょう。

その後、三浦義澄は福原、及び須磨で勃発した「一ノ谷の戦い」や、平氏滅亡の結末を迎えた「壇ノ浦の戦い」など、源平合戦における主要な合戦にも従軍します。「壇ノ浦の戦い」では、源義経軍から平氏追討の先鋒を命じられ、その討滅に従って功を立てたのでした。

鎌倉幕府での活躍

文治5年(1189)、源頼朝は平泉に逃げ込んだ源義経の身柄引き渡しをめぐる対立から、奥州平泉の藤原氏を征服します。義澄はこの奥州征伐にも戦功を立て、翌建久元年(1190)の頼朝上洛では随兵(ずいひょう)の役割を務めました。随兵とは、将軍の拝賀参内や寺社参詣等の行列に、甲冑をつけ、弓矢を帯し、騎馬にて随行する将軍の身辺警固のための武士を指します。

在京中にはこれまでの勲功の賞として、頼朝から右兵衛尉(うひょうえのじょう)という役職に推挙されましたが、跡取りである義村(よしむら)にこれを譲りました。建久3年(1192)、頼朝が征夷大将軍に任じられると、義澄は頼朝の使者として比企能員(よしかず)以下を従えて、鶴岡八幡宮でその除書(=任命書)を受け取る大役を果たしました。ここからも、頼朝が三浦氏を厚く処遇した様子が見て取れます。

十三人の合議制の一人となる

正治元年(1199)の頼朝の没後、二代目将軍・頼家(よりいえ)の直裁をとどめ、宿老十三名による合議制となったとき、義澄はその一員に加わりました。彼は幕政における重臣の地位を占め、以後の三浦一族が活躍する基盤を築いたのでした。

また、同年12月には、頼朝・頼家と二代にわたり将軍からの信認が厚かった梶原景時(かげとき)を鎌倉から追放する事件(=梶原景時の乱)が起こりました。義澄は弾劾派としてこれに加担します。その後、正治2年(1200)1月23日に74歳で没しました。

三浦氏のその後

義澄は相模国守護となり、甥である和田義盛(わだよしもり)は侍所別当(さむらいどころべっとう)に任ぜられるなど、三浦氏は幕府の重臣として活躍しました。その後、息子の義村は、同氏である三浦胤吉(たねよし)らが後鳥羽上皇側として決起を促していた承久の乱でも北条側に付き従い戦いました。義村の子・泰村(やすむら)も同じく北条氏と姻戚関係を結んで強勢を誇りました。

しかし、宝治元年(1247)に起こった宝治合戦にて、北条時頼(ときより)の策謀により、一族はほとんど滅亡してしまいます。これは北条氏内の権力争いに三浦氏が関わったことで、両者の間に疎隔が生じたために起こった戦いでした。ここで三浦氏一族が自害して滅亡したことから、北条氏の独裁体制が確立したとされています。

まとめ

源頼朝の挙兵から彼を支え、篤い信頼関係を築いた三浦義澄。戦いの場だけではなく、幕府重臣の一人に数えられるなど、初期幕政の重要な役割を担いました。源氏に深い忠義を持って仕えるその姿は「忠臣」という言葉がぴったりなのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『デジタル大辞泉』(小学館)
『日本国語大辞典』(小学館)

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