「自分の選択にプライドを持て」母はいつも私の名プロデューサー

──台湾のお生まれでいらっしゃいます。

「台湾の台北市で生まれて、3歳になる頃に家族と日本にやって来ました。父は台湾のラジオ局に勤めていたのですが、日本に駐留する米軍のGHQから“中国語と英語ができる人間が欲しい”と請われたそうです。日本へ来てからは、GHQラジオで中国語放送のチーフとして番組をつくっていました。

なぜ父が英語を話せたのか。小学生の頃に厦門(アモイ・中国福建省)のアメリカン・スクールにいたからなんですって。最近、父の自叙伝を読んで初めて知ったことですけどね」

──ジュディさんこそ語学の達人ですね。

「私は日本語、英語、台湾語、北京語、スペイン語の5つ。日本に来てからも、おうちの中では台湾語じゃなければ、ご飯もおやつもなし。外では日本語。隣のマサコちゃんたちと遊びたくてすごい勢いで吸収しました。小学校は東京中華学校に入って北京語を身に付けました。英語はアメリカ人の家庭教師について教わったんです。両親は、私を国際人に育てようとして、基本になる言葉を早くから身に付けさせようとしたんでしょうね」

──語学の習得は大変じゃないですか。

「そこは子供の好奇心です。心の窓を開けること、愉しいというところから入らないとダメですけど。英語の先生は、それが上手な方で、私の心の殻を解き放つために、初日はまずお台所へ招き入れてくれて、調理中のお鍋の蓋を指差して何か言っている。“開けてごらん”って言ってるんだと思って、蓋をとりました。いい香りがして、湯気で先生のメガネが白く曇って、そこに笑っている目が見えて“あ、いい先生だな”とわかったんです。
あとはもう手真似・足真似、あっという間に英語を憶えました。その先生が、私にジュディという英語名をつけてくれたんです」

──芸能界入りのきっかけはなんですか。

「9歳のときに、友だちに誘われて『劇団ひまわり』の試験に付き添って行ったんです。スターに会えるからと言われて。そうしたら、誘った彼女じゃなくて、ついて行っただけの私が試験も何もなしで合格したんですよ。“きみは英語をしゃべったり、北京語をしゃべったり、面白いねぇ”って(笑)。

父は芸能界入りには大反対。でも、母はいつも娘の選択を大事にして、可能性を最大限に伸ばして上げようという人でしたからね。父を説得してくれたんです」

──すぐ映画やCMで活躍されますね。

「日米合作映画の『大津波』でデビューをしたのが11歳。その前からファンタとか帝人とかのコマーシャルに随分出ていました。日本コロムビアから『恋ってどんなもの』で歌手デビューをしたのは16歳のときです。

最近、14歳頃の私の新聞記事が出てきましてね。おさげ髪のセーラー服姿で“私はドリス・デイになる。夢は国際女優”なんて宣言していて、笑っちゃいました」

16歳頃のジュディ・オングさん(手前)と家族。日本コロムビアから歌手デビューした頃だ。写真左は父の翁おきな炳じえい栄さん、右は母の和江さん、上は兄のツーモ・オングさん(1966年頃)。

16歳頃のジュディ・オングさん(手前)と家族。日本コロムビアから歌手デビューした頃だ。写真左は父の翁炳栄さん、右は母の和江さん、上は兄のツーモ・オングさん(1966年頃)。

──時代劇でも大活躍されました。

「20代の約6年間は、時代劇の撮影でほとんど京都でした。一年365日のうち280日は着物姿。その間、山田五十鈴先生と若山富三郎先生が“ジュディは時代劇役者の才能がある”って、本当に可愛がってくださった。着物での自然な立ち居振る舞い、殺陣の太刀さばきから三味線の弾き方までぜんぶ、おふたりに教えていただいたんです。

断崖の道を3頭の馬が疾走するシーンでは、接近し過ぎて、お互いの鐙(あぶみ)がカンカーンとぶつかり、馬ごと谷底へ転落しそうになりました。間一髪免れましたが、撮影スタッフはみんな私が転落死したと思ったそうですよ。

『魅せられて』に大ヒットの兆しがみえた時期も、京都撮影所にいました。いつものように時代劇を撮っているところへ、マネージャーが“大変だぁ。一日で10万枚売れました!”って駆け込んできたんです」

──200万枚の大ヒットになりました。

「はい。そのときは、ほかのレコードのプレスを中止して『魅せられて』を先行しないと間に合わないってことで、出荷した10万枚が即日売れたという報せでした。実感がないまま聞いていたら、すぐ音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS)から“歌ってほしい”と連絡があったんです。その夜は、時代劇の長屋のセットから中継でうたいました」(笑)

──当時、ハリウッドの誘いを断ったとか。

「ハリウッドのテレビ映画『将軍』のヒロイン役のオファーは、『魅せられて』がヒットする前からいただいていた。ところが、撮影スケジュールが遅れに遅れて。『魅せられて』と重なったんです。人間には苦しい選択を迫られるときがある。どちらを選んでも後悔してはならないんですが、新聞には“ジュディ・オング降板”と出て、私も悩みました。

でも、母に言われたんです。“自分の選択にプライドを持ちなさい!”って。そのひと言で吹っ切れて、『魅せられて』に全力を注ぐという、目標がはっきりしました。それが第21回レコード大賞受賞、第30回NHK紅白歌合戦の初出場にもつながった。そう、母はいつも私の名プロデューサーです」

【木版画に打ち込み、世界各地で個展。次ページに続きます】

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