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【サライ・インタビュー】
ジュディ・オングさん(歌手、女優、木版画家)
――子役からの芸能歴は60年。人生を大いに愉しみ、なお夢に挑戦――
「これからは毎日をお正月にしよう」古稀を迎えて、そう決めたんです
2020年1月26日。東京・丸の内で行なわれた70歳の「バースディ・ライブ」のステージで。『エーゲ海のテーマ~魅せられて』を優雅に熱唱。1979年に200万枚の大ヒットを記録、日本列島を席巻したジュディさんの代表曲だ。真っ白い衣装に透けるシルエットが美しい。

2020年1月26日。東京・丸の内で行なわれた70歳の「バースディ・ライブ」のステージで。『エーゲ海のテーマ~魅せられて』を優雅に熱唱。1979年に200万枚の大ヒットを記録、日本列島を席巻したジュディさんの代表曲だ。真っ白い衣装に透けるシルエットが美しい。

※この記事は『サライ』本誌2020年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──70歳の記念ライブをされました。

「ええ。『バースディ・ライブ』は4度目になりますが、今年は私も70歳、古稀を迎えたことが、いまの一番のトピックスです(笑)。

昔は70歳と聞けば、炬燵で居眠りをしているお婆ちゃんのイメージですが、いざ自分がその年齢になってみたら、全然そうじゃない。心が若ければ、何も諦めることもなく、夢を持ち続けられる、挑戦ができます。

古稀とは、唐代の杜甫の漢詩『曲江』にある“人生七十古来稀”に由来するそうです。杜甫は、70歳まで長生きするのは稀だから、今のうちに人生を大いに愉しもうよとうたっています。唐の昔の70歳は、現在の120歳くらいの感覚かもしれませんけどね。私が古稀になって思ったのは、これまで以上に今を素敵に生きようということ。そのため“毎日をお正月にしよう”と決めたんですよ」

──具体的に何かなさるのですか。

「お正月がもう何回くるかわからないでしょう。だから、年1回しか出さなかった特別な漆器でも何でも惜しみなく使う。例えば脚の長いゴブレット型の漆器にモズクやメカブをちょっと盛ってみるとかね。それだけでも、食卓が立体的になって、凄く愉しい。

高価なグラスを割っちゃうのが怖い、傷つけちゃうのが怖いなんて思っているうちに、人生が終わってしまいます。これ素敵だなと思ったら、毎日の生活のなかにどんどん入れてゆく。朝のコーヒーカップも〈きょうは青空だから、ブルー一色のマイセンで飲もう〉とかね。そうやって、日々を生きていることが素敵になるように、飲む、食べる、お化粧をする、お洋服を選ぶ。そのひとつひとつを丁寧に楽しむのが、今の私の暮らし方です」

──ずっとお正月が続くわけですね。

「そう、きっかけは何でもいい、70歳じゃなくていいんですよ。悲しいことがあったときこそ、気持ちをリフトアップする。自分をプッシュアップする。“その日”を決めて、次の人生があるのよと踏み出せばいいんです。
どんどん泣いてもいい、そのほうがあのとき“素敵ね”と思った気持ちが残りますから。何がないということよりも、何があるってことを考えて、そこに自分を置く。そうやって前を向いて生きてゆくことが大事、でないと自分が廃墟になってしまいます」

──ジャズのアルバムも出されました。

「『ALWAYS』は、私の初めてのジャズ・アルバムです。スタンダード・ジャズは3歳の頃から聴いていた子守唄みたいなものですから、身体に染みついて、私の一部になっています。今回は1950年代から’60年代にかけて流行った、日本のスタンダードになっている歌に『蘇州夜曲』を加えました。選曲はもちろん、音の構成も含めて、一から十までぜんぶに携わってつくったんです。

曲のひとつひとつに、私自身の想い出のストーリーが重なっています。『アイ・ウィッシュ・ユー・ラブ』は、雨のなか、泣きながら彼の車を見送った、私の切ない初恋への“さよなら”の曲。ですから、ライナーノーツを見てから聴いていただくと、また一味違った楽しみ方をしていただけるんじゃないかしら」

芸能生活60年。自身初のジャズ・アルバム『ALWAYS』を一昨年発売した。この日のステージは、子供の頃から子守唄代わりに聴いていた大好きなジャズを、自由に心のままにうたってみせた。古稀を迎えたという70歳のステージは溌溂として清新だった。

芸能生活60年。自身初のジャズ・アルバム『ALWAYS』を一昨年発売した。この日のステージは、子供の頃から子守唄代わりに聴いていた大好きなジャズを、自由に心のままにうたってみせた。古稀を迎えたという70歳のステージは溌溂として清新だった。

この日のステージに立つ直前、楽屋の鏡に向かって気持ちを高めてゆく。ジュディさんは、台湾では野球の王貞治、囲碁の林海峯と並ぶ“華僑三宝”のひとり。1980年には、台湾の国民栄誉賞も受賞している。

この日のステージに立つ直前、楽屋の鏡に向かって気持ちを高めてゆく。ジュディさんは、台湾では野球の王貞治、囲碁の林海峯と並ぶ“華僑三宝”のひとり。1980年には、台湾の国民栄誉賞も受賞している。

「自分の選択にプライドを持て」母はいつも私の名プロデューサー

──台湾のお生まれでいらっしゃいます。

「台湾の台北市で生まれて、3歳になる頃に家族と日本にやって来ました。父は台湾のラジオ局に勤めていたのですが、日本に駐留する米軍のGHQから“中国語と英語ができる人間が欲しい”と請われたそうです。日本へ来てからは、GHQラジオで中国語放送のチーフとして番組をつくっていました。

なぜ父が英語を話せたのか。小学生の頃に厦門(アモイ・中国福建省)のアメリカン・スクールにいたからなんですって。最近、父の自叙伝を読んで初めて知ったことですけどね」

──ジュディさんこそ語学の達人ですね。

「私は日本語、英語、台湾語、北京語、スペイン語の5つ。日本に来てからも、おうちの中では台湾語じゃなければ、ご飯もおやつもなし。外では日本語。隣のマサコちゃんたちと遊びたくてすごい勢いで吸収しました。小学校は東京中華学校に入って北京語を身に付けました。英語はアメリカ人の家庭教師について教わったんです。両親は、私を国際人に育てようとして、基本になる言葉を早くから身に付けさせようとしたんでしょうね」

──語学の習得は大変じゃないですか。

「そこは子供の好奇心です。心の窓を開けること、愉しいというところから入らないとダメですけど。英語の先生は、それが上手な方で、私の心の殻を解き放つために、初日はまずお台所へ招き入れてくれて、調理中のお鍋の蓋を指差して何か言っている。“開けてごらん”って言ってるんだと思って、蓋をとりました。いい香りがして、湯気で先生のメガネが白く曇って、そこに笑っている目が見えて“あ、いい先生だな”とわかったんです。
あとはもう手真似・足真似、あっという間に英語を憶えました。その先生が、私にジュディという英語名をつけてくれたんです」

──芸能界入りのきっかけはなんですか。

「9歳のときに、友だちに誘われて『劇団ひまわり』の試験に付き添って行ったんです。スターに会えるからと言われて。そうしたら、誘った彼女じゃなくて、ついて行っただけの私が試験も何もなしで合格したんですよ。“きみは英語をしゃべったり、北京語をしゃべったり、面白いねぇ”って(笑)。

父は芸能界入りには大反対。でも、母はいつも娘の選択を大事にして、可能性を最大限に伸ばして上げようという人でしたからね。父を説得してくれたんです」

──すぐ映画やCMで活躍されますね。

「日米合作映画の『大津波』でデビューをしたのが11歳。その前からファンタとか帝人とかのコマーシャルに随分出ていました。日本コロムビアから『恋ってどんなもの』で歌手デビューをしたのは16歳のときです。

最近、14歳頃の私の新聞記事が出てきましてね。おさげ髪のセーラー服姿で“私はドリス・デイになる。夢は国際女優”なんて宣言していて、笑っちゃいました」

16歳頃のジュディ・オングさん(手前)と家族。日本コロムビアから歌手デビューした頃だ。写真左は父の翁おきな炳じえい栄さん、右は母の和江さん、上は兄のツーモ・オングさん(1966年頃)。

16歳頃のジュディ・オングさん(手前)と家族。日本コロムビアから歌手デビューした頃だ。写真左は父の翁炳栄さん、右は母の和江さん、上は兄のツーモ・オングさん(1966年頃)。

──時代劇でも大活躍されました。

「20代の約6年間は、時代劇の撮影でほとんど京都でした。一年365日のうち280日は着物姿。その間、山田五十鈴先生と若山富三郎先生が“ジュディは時代劇役者の才能がある”って、本当に可愛がってくださった。着物での自然な立ち居振る舞い、殺陣の太刀さばきから三味線の弾き方までぜんぶ、おふたりに教えていただいたんです。

断崖の道を3頭の馬が疾走するシーンでは、接近し過ぎて、お互いの鐙(あぶみ)がカンカーンとぶつかり、馬ごと谷底へ転落しそうになりました。間一髪免れましたが、撮影スタッフはみんな私が転落死したと思ったそうですよ。

『魅せられて』に大ヒットの兆しがみえた時期も、京都撮影所にいました。いつものように時代劇を撮っているところへ、マネージャーが“大変だぁ。一日で10万枚売れました!”って駆け込んできたんです」

──200万枚の大ヒットになりました。

「はい。そのときは、ほかのレコードのプレスを中止して『魅せられて』を先行しないと間に合わないってことで、出荷した10万枚が即日売れたという報せでした。実感がないまま聞いていたら、すぐ音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS)から“歌ってほしい”と連絡があったんです。その夜は、時代劇の長屋のセットから中継でうたいました」(笑)

──当時、ハリウッドの誘いを断ったとか。

「ハリウッドのテレビ映画『将軍』のヒロイン役のオファーは、『魅せられて』がヒットする前からいただいていた。ところが、撮影スケジュールが遅れに遅れて。『魅せられて』と重なったんです。人間には苦しい選択を迫られるときがある。どちらを選んでも後悔してはならないんですが、新聞には“ジュディ・オング降板”と出て、私も悩みました。

でも、母に言われたんです。“自分の選択にプライドを持ちなさい!”って。そのひと言で吹っ切れて、『魅せられて』に全力を注ぐという、目標がはっきりしました。それが第21回レコード大賞受賞、第30回NHK紅白歌合戦の初出場にもつながった。そう、母はいつも私の名プロデューサーです」

木版画に打ち込み、世界各地で個展。「時間はつくるものですよ」

──木版画家でもいらっしゃいます。

「油絵は描いていたんですが、木版画は25歳から。きっかけは棟方志功門下の井上勝江先生の個展です。超モダンな作風に圧倒されて、その場で弟子入りをお願いしたら“あら、ジュディ・オングさん。無理よ”(笑)。

ダメといわれたら逆にやる気になって、帰ってすぐ椿の絵を描き、凄い勢いで彫ってみたんです。馬簾(ばれん)がないので、スリッパで摺りました(笑)。再度、先生を訪ねたら、版木をじっと見て“今週からいらっしゃい”。初めは丸の彫り方から教わったんですよ」

──テーマは日本の家屋が多いのですね。

「日本家屋は、この国の風土、歴史、哲学の結晶ですよね。撮影で長く京都にいましたので、お茶屋さんを始め、日本家屋に触れる機会が多くて、その建物文化に惚れたんです。

まず下絵を描く。この構想がいちばん大事で、楽しいけど苦しい。生き生きと見せるにはどうするか。黒のなかに違う黒を出してみようかとか、色分解を考えながら描いてゆく。そこが勝負です。彫るのは技術ですから」

ジュディさんが手にしている版木は、『紅椿』という作品のもの。今では西欧各国や中国・台湾等で個展を行なうアーティストだ。「台湾では5万人の方に観ていただきました」

ジュディさんが手にしている版木は、『紅椿』という作品のもの。今では西欧各国や中国・台湾等で個展を行なうアーティストだ。「台湾では5万人の方に観ていただきました」

──いくら時間があっても足りませんね。

「時間はつくるものですよ。情熱があれば持続できます。5日休んでも、6日目にまた始めればいいんです。それがクセになって継続になる。気にし過ぎると続きませんね。ある程度、自分を許してあげることです。たとえ日があいても、小さいサイズから描き始めて、大きな作品にして、また挑戦したらいい。そうすると人生素敵ですよ」

『鳳凰迎祥』。2003年に「宇治平等院鳳凰堂」をテーマに彫り上げて日展に入選した100号の大作。版木の数は8版。作品は2年後の3月、宇治平等院に奉納された。

『鳳凰迎祥』。2003年に「宇治平等院鳳凰堂」をテーマに彫り上げて日展に入選した100号の大作。版木の数は8版。作品は2年後の3月、宇治平等院に奉納された。

 
──災害のチャリティもされています。
 

「東日本大震災の日は、東京の自宅にいたんですが、揺れがおさまってテレビをつけたら、あまりの被害の大きさに茫然として。これは日本でのチャリティは無理だと思って台湾の大使に電話をしました。日本を助ける呼びかけをしたいって。翌朝、“スペシャル番組ができたよ、すぐ台湾へ飛ぼう”と連絡がありましてね。台湾では飛行場からもう募金の呼びかけが始まっていました。日本を助けよう、日本がんばれって、全部のテレビ局が共同で募金を募る番組を作って放送してくれたんです。私の木版画も募金に貢献しましたし、小さな子が貯金箱のお金を全部寄付してくれたりしました」

──最終的に台湾から総額220億円の義援金が日本に届いたそうです。

「1999年に9.21台湾中部大地震が起きましたが、あのときは日本からの国際救援救助隊が一番最初に台湾入り。私たちが東京で開いたチャリティコンサートなどでも、日本のみなさんには多大な支援をいただいた。台湾の人は、その経験から大地震の大変さも支援のありがたさもよく知っているんです。

ある会社の社長からは、フリース3万着を日本に送ってほしいと電話をもらいましてね。皆様のご協力で、被災地へお届けできました」

──ご自身の目指すゴールはどこですか。

「人生の最期のカーテンをしめるとき、自分自身に〈ああ、よかった。私、できたね〉と言えるのがゴールかな。いまはそのための準備期間で、毎日がお正月(笑)。そうね、みなさんの前で好きな歌をうたって“ありがとう”という拍手をいただいた後、その幸福感に浸りながら眠りに就く。それで目が覚めなかったら、一番理想的かなと思います」

ジュディ・オング 歌手/女優/木版画家 1950年、台湾生まれ。3歳で来日。9歳で劇団ひまわり入団。11歳の時、日米合作映画「大津波」でデビュー。歌手デビューは16歳、以来スマッシュヒットを飛ばし、1979年「魅せられて」の大ヒットにより日本レコード大賞他を受賞。木版画家としては、14回の日展入選を果たし、2005年には日展特選を受賞。現在、ワールドビジョン親善大使、日本介助犬協会サポート大使、ポリオ根絶大使を務めている。

※この記事は『サライ』本誌2020年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工 撮影協力/コットンクラブ

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