◎No.25:夏目漱石の剃刀
文/矢島裕紀彦
ロンドンの夏目漱石は、計5回の宿替えをした。だが、どこに住んでも、一日が朝の身づくろいから始まるのに変わりはない。次のような手紙文からも、ひとり苦闘しながら支度を整える漱石の姿が浮かんでくる。
「他国にて独り居る事は日本にても不自由に候。況(いわ)んや風俗習慣の異なる英国にては随分厄介に候。朝起きて冷水にて身を拭ひ髯をけづるのみにても中々時間のとれるものに候。況んや白シヤツを着換へボタンをはづし抔(など)する。実にいやになり申候」(明治34年1月22日付、鏡子夫人宛)
帰朝後、小泉八雲の後任として東京帝国大学の講師となった漱石は、だが、一味違っていた。自ら好んで身につけるは、ハイカラ(高襟)のシャツと体にぴったりしたフロックコート、ぴかぴかの革靴。髪は綺麗になでわけ、左右の先端をぴんとはね上げコスメチックで固めたカイゼル髭を、純白のハンカチを使ってさっさと磨く。いかにも洋行帰りの紳士だった。
はね上げた髭の先を少しばかり切り落とし、現今の千円札でもお馴染みの表情に落ち着いたのは、明治43年(1910)の胃潰瘍入院治療の前後らしい。
漱石が長年使い込んだ剃刀(神奈川近代文学館蔵)は、折り畳み式、革ケース付という形態からして、英国へも携行した可能性が高い。剃刀の刃を自ら革砥で研ぐ、毎朝の日課は、ロンドンでも続けられていたに違いない。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。