文/後藤雅洋
「キャラ立ちする」という言い方がありますが、アニタ・オデイはまさに白人女性ヴォーカリストとしてはもっともキャラクターが際立った存在といえるでしょう。アニタは人々がジャズ・ヴォーカリストに抱く、典型的なイメージを見事に際立たせているのです。
では、私たちがジャズ・ヴォーカリストに求めるものはいったい何でしょうか? 人によりさまざまでしょうが、一定の共通項はあるように思えます。それは「強烈な個性」なのですね。
もっともそれはポピュラー畑のシンガーにもいえることで、一流とされたスター歌手は必ず誰しもが思い描ける強烈なイメージをもっています。近年では惜しくも亡くなったマイケル・ジャクソン、古くはビートルズ、エルヴィス・プレスリーなどは歌唱の魅力プラス、人物像の鮮烈さがファンを惹きつけてもいました。
では、ジャズ・ヴォーカリストは彼らとどう違うのでしょう。これはなんといっても「持ち歌」のあるなしです。
マイケル・ジャクソンのイメージは記録的ヒットとなった「スリラー」のミュージック・ビデオなしには考えられませんし、プレスリーにしても、時代に先駆けた印象的なロック名曲「ハートブレイク・ホテル」で、それこそブレイクしたのでした。ビートルズに至っては、他の歌手が、スタンダードと化したポール・マッカートニーの歌唱による名曲「イエスタデイ」を歌っても、ポールの存在が意識されてしまうほどです。
しかるにジャズ・ヴォーカリストは、セルフ・イメージをアピールするもっとも有効なツールである持ち歌なしで、独自性を発揮しているのです! なにげない事実ですが、よく考えてみるとこれは凄いことではないでしょうか。
というのも私自身を含め、多くの音楽ファンはまず楽曲のメロディ、そして心に響く歌詞を歌っている歌手という順序で、初めて接する歌い手に対するイメージを作り上げているからです。ところがジャズ・ヴォーカリストは、最初のふたつのファクター、メロディと歌詞は、誰もがスタンダード・ナンバーと呼ばれた同じものを歌っているのですね。
ジャズ歌手の勝負どころ
それではジャズ・ヴォーカリストはいったいどうやって「キャラを立てて」いるのでしょうか。なんと「歌い方」だけなのです。同じメロディ、同じ歌詞の既成楽曲=スタンダードを、それぞれのやり方で歌い分け、個性を表現しているのですね。
さすがにそれはちょっと無理だろうと思われるでしょう。しかし大丈夫、ジャズにはジャズならではの発明があるのです。それがジャズ・ヴォーカルの代名詞ともいわれている「スキャット」なのです。というか、この発明は「ジャズ」という音楽の本質的部分を象徴してもいるのです。
ジャズの本質とは何か? これ自体が大問題で、それこそ人によってじつに多様な捉え方があるでしょう。しかし、多くのジャズ・ファンが認める重要なポイントは、「ジャズはきわめて自由な音楽である」ということではないでしょうか。それは「譜面のない音楽」という言い方で一般化されてもいます。
ほんとうはジャズにも譜面はあるのですが、クラシック音楽のように一点たりとも揺るがせにしてはいけない法典のようなものではなく、一種の「ガイドライン」にすぎないのですね。いわば、ジャズの譜面=原曲は料理でいえば「素材」のようなもので、それこそ特売日に買い込んだ牛肉をすき焼きにしようがしゃぶしゃぶにしようがお好み次第、有能な主婦なら部位によって凝ったシチューだろうがローストビーフだろうが腕次第というわけです。
ジャズ・ヴォーカルに話を戻せば、原曲のよさを生かそうとメロディ・ラインをあまり崩さずに歌うタイプなら、カーメン・マクレエがその代表でしょう。先ほどのたとえでいえば、上質の牛肉を買い込んでシンプルにステーキでいただくような行き方ですね。
ジャズ歌手は歌の料理人
では、ジャズ・ヴォーカルの代名詞である「スキャット」は料理でいえば何でしょうか? 今や日本の国民食ともいわれているカレーなんかはどうでしょう。
本来はインド料理でしたが、植民地時代のイギリスでカレーライスの原型ができ、日本に伝わるとそれこそカツカレーありカレーうどんありと、まさに千変万化。本家インドではヒンズー教徒が8割を占めるため、本来は牛肉も豚肉もアウト。しかるに日本のカレーはそれこそ何でもありなんですよね。
もちろんこのたとえは、もともとミュージカル、映画用に作られた“ティン・パン・アレー”楽曲が純粋インド・カレーだとしたら、ジャズ・ヴォーカルは日本の多彩なカレー料理のように自分の好みに合わせ、カレーパンだろうがカレー南蛮だろがその日の気分次第というお話です。
つまり、ポピュラー・シンガーが歌う原曲がインドのカレーなら、レシピ(譜面)どおり牛も豚もダメだけど、スキャットしながら日本まで来てしまえば、ほんとうに自由な「自分好み」の料理(歌唱)に仕立て上げられるということなのです。
そして、もちろんたとえですが、アニタは日本流カレー料理の名人なのでした。
スキャットという大発明
スキャットは歌も歌う大トランぺッター、ルイ・アームストロングが録音の際、歌詞カードを落としたと称し、「ウヴィ・ダヴァ」と擬音語で歌い出したのが始まりとされています。1926年のことでした。そしてこのエピソードをもって、ルイがジャズ・ヴォーカルの開祖とされているのですね。
ルイがスキャットを思いついた動機は、決められたメロディ、歌詞から離れ、もっと自由に歌いたいということに尽きるでしょう。メロディを変えれば元の歌詞と「語呂」が合わなくなり、また、歌詞が失恋の話なら、ウキウキと歌ってしまえば、ちょっとおかしいですよね。それがウヴィ・ダヴァならいかようにでも自分らしさが出せるというわけです。
そしてこのルイの26年の「発明」は、ジャズの変化に伴って進化します。初期のスキャットは、原曲のメロディ・ラインをその日そのときの気分で「崩し」、各人各様の「味つけ」を行なう程度のものでした。もちろんこの「メロディ崩し」だって巧みにやればその効果は素晴らしく、それを「擬音語」は使わずに歌詞どおりに歌って圧倒的な感動を与えたのがカリスマ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイだったのです。先ほど紹介したカーメンは、ビリーのやり方を踏襲しています。
1940年代半ばに天才的アルト・サックス奏者、チャーリー・パーカーが面白いアイデアを思いつきました。ミュージカルなどの“ティン・パン・アレー”楽曲は、音楽の基本構造ともいえる和声(コード進行)を骨組みとしてメロディ・ラインを組み立てています。そしてその「骨組み」に適合する旋律は、じつは一通りではなく、別の組み合わせも可能なのです。パーカーはこの音楽の基本原理を利用し、「即興で」原曲の旋律とは違う組み合わせを演奏することでスリルと生々しさを生み出したのですね。「モダン・ジャズ」の誕生です。
これは器楽の試みでしたが、サラ・ヴォーンはスキャットでパーカーと同じことをやってみせたのです。つまり「声」を楽器のように使ったのですね。スキャット・ヴォーカルの進化です。先ほどの「崩し」なら元のメロディを思い浮かべるのは容易ですが、この「モダン・スキャット」ともなると、何という曲かがすぐにはわからない半面、歌い手の個性を発揮するには大きな力を発揮しました。ジャズ・ヴォーカリストには、歌詞どおりに歌いつつ微妙に旋律を「崩し」、個性を発揮するビリーやカーメンのような穏当なスタイルから、進化したスキャットで自由奔放に自己表現を行なうサラのようなタイプまで、人それぞれです。
技術あっての大胆さ
多くの音楽ファンがジャズ・ヴォーカルに抱いているイメージは、スキャットというポピュラー・ミュージックでは絶対に見られない大胆な歌い方のことなのではないでしょうか。アニタはこのスキャット唱法を用い、歌い手の個性を最大限に発揮する白人女性歌手の代表なのでした。
アニタはスキャットの巧みさはいうまでもありませんが、それ以上に注目すべきなのが彼女ならではの「崩し」なのです。そもそも原曲のメロディを少し変えるのは「自分らしさ・個性」を発揮するためでしたが、アニタはそこにまさに“ビ・バップ”的な「スリル」を付け加えたのです。
どうやるのかというと、まるで音痴の人が歌っているように一瞬メロディを崩し、聴いているほうが「おいおい、大丈夫かよ」と思わせておいて、直後に持ち直し、聴き手をハラハラさせる高等戦術です。言うまでもありませんが、こうしたことは圧倒的な音感と完璧な歌唱技術がなければできないのですね。
高いプロ意識が作る個性
アニタ・オデイの本名は、アニタ・ベル・コルトンで、1919年(大正8年)にアメリカ中西部イリノイ州の大都市、シカゴに生まれました。アニタは生粋の都会っ子だったのです。のちに彼女は姓を「オデイ」に変えていますが、これはスペイン語のスラングで「お金」を意味するそうです。なぜ、彼女がこうした変わった姓を選んだのかというと、生活に困窮し切にお金を望んだからだそうです。この切実さが彼女の「プロ魂」を生んでいるのですね。
アニタの両親は彼女の生後間もなく別れ、アニタは母親に引き取られます。しかし母はアニタに冷たく、アニタは孤独な幼少期を過ごしています。子供のころの出来事として重要なのは、7歳のときに受けた扁桃腺の手術に失敗し、「のどちんこ」を誤って切られてしまったのですね。これは歌手にとっては致命的で、声を長く伸ばす音やヴィブラートをかけることができなくなってしまったのです。
しかしアニタの凄いところはこのハンディキャップを逆手にとって、見事アニタならではの個性的唱法を開発したのです。それは声を断続的に切って旋律を表現する独創的なスタイルです。
子供のころのアニタに話を戻すと、彼女は教会で音楽に目覚めましたが、他の多くのジャズ・ヴォーカリストのように最初から歌手を目指したというより、半ばお小遣い稼ぎ的な発想で歌や踊りを披露していたようです。当時の経歴で不思議なのは、14歳のとき「ウォーカソン」という奇妙な運動に熱中していたことです。これは「ウォーキング」と「マラソン」の合成語で、長距離を歩き続けるイヴェントなのだそうですが、なんとアニタはそのプロ競技者になったというのですね。
それだけではありません、彼女はこの競技に参加し2年間も親元を離れ、ときには97日間も歩き通すというヨガ行者のような生活をしていたのです。一見お洒落な都会っ子の意外な側面ですね。
バンド歌手のスターに
そして41年、彼女は当時の人気バンド、ジーン・クルーパ楽団の専属歌手になりプロ・デビュー。2年の在籍期間中に多くのヒット曲を出し、ジャズ・ヴォーカリストとしての地位を確立させました。その後、西海岸を拠点に活動するスタン・ケントン楽団に参加してミリオン・セラーを叩き出しますが、彼女はケントン楽団のいささかスクエアなスタイルより、ドラマーであるクルーパ率いるリズミカルなバンド・サウンドを好み、古巣に戻っています。
第2次世界大戦が終結した45年、アニタはジャズ専門誌『ダウンビート』のベスト・バンド・ヴォーカリストに選ばれると同時に、ジャズに力を入れていた男性誌『エスクァイア』でも最優秀新人賞を得ています。その後アニタはソロ・シンガーとして独立し、のちにヴァーヴ・レコードを興す名プロデューサー、ノーマン・グランツの手になる数々の名盤を録音しています。
そして58年、多くのジャズ・ファンにとってアニタの姿が印象づけられたジャズ映画の傑作『真夏の夜のジャズ』で艶やかなステージを披露していますね。63年に初来日し、その後もたびたび来日公演を行なっています。
60年代はヘロイン中毒で悩みましたが70年代にカムバック、80歳を超えても歌い続け、2006年に87歳で亡くなりました。
文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
日本におけるジャズ評論の第一人者。1947年東京生まれ。慶應義塾大学在学中に東京・四谷にジャズ喫茶『い~ぐる』を開店。店主としてジャズの楽しみ方を広める一方、ジャズ評論家として講演や執筆と幅広く活躍。ジャズ・マニアのみならず多くの音楽ファンから圧倒的な支持を得ている。著者に『一生モノのジャズ名盤500』、『厳選500ジャズ喫茶の名盤』(ともに小学館)『ジャズ完全入門』(宝島社)ほか多数。
※隔週刊CDつきマガジン『JAZZ VOCAL COLLECTION』(ジャズ・ヴォーカル・コレクション)の第47号「アニタ・オデイvol.2」(監修:後藤雅洋、サライ責任編集、小学館刊)が発売中です(価格:本体1,200円+税)