文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「見果てねど はた見あきねど我が夢は 四十余年の夢多き日々」
--滝田樗陰

滝田樗陰は明治15年(1882)秋田に生まれた。東京帝国大学在学中から雑誌『中央公論』の編集の手伝いをしていたが、仕事の面白さに目覚めたのか、そのまま大学を中退し正社員となった。大正元年(1912)同誌主幹(編集長)。まだ無名だった室生犀星や佐藤春夫をはじめ、多くの書き手を見出し、育てあげた名編集者だった。

芥川龍之介が、滝田没後の『中央公論』の追悼特集号にこう綴っている。

「滝田君は熱心な編輯者だった。殊に作家を煽動して小説や戯曲を書かせることには独得の妙を具えていた。僕なども始終滝田君に僕の作品を褒められたり、或は又苦心の余になった先輩の作品を見せられたり、いろいろ鞭撻を受けた為にいつの間にかざっと百ばかりの短篇小説を書いてしまった。これは僕の滝田君に何より感謝したいと思うことである」

人をその気にさせて力を引き出し、いい作品を生み出させる。滝田はそのことに、人並み優れた手腕を持っていたのである。文壇関係者の誰もがその辣腕ぶりを認め、無名作家にとっては彼の人力車が自分のもとにやってくるのが夢であり、憧れだったという。

滝田は、夏目漱石のもとにも出入りしていた。とくに最晩年の1年余りは毎週のように漱石山房を訪れていた。この訪問は仕事というより、自身の趣味を満足させる意味合いの方が強かった。滝田は文人たちの揮毫(きごう)を収集するのを無類の楽しみとしていたのだ。

毎週木曜の面会日、滝田は昼過ぎになると誰よりも早く漱石邸に人力車でのりつけた。紙や筆、硯、毛氈、筆洗などをひと抱え、ごっそりと持ち込むと、自分で墨をすり、毛氈を敷き、紙を展(の)べて、一切の準備を整え、「さあ、先生、お書きください」と、ほとんど漱石の手をつかまんばかりにして、2、3時間のあいだ、ほとんど休みなしに書や絵をかかせたという。それも、「吾輩は猫である」と書いてくださいとか、「時鳥(ほととぎす)厠半ばに出かねたり」と書いてくださいとか、屏風にするからとか、この絵に賛を入れてくださいとか、いちいち細かな注文をつける。それでも、よほど書かせる呼吸がうまかったらしく、漱石は文句もいわず、言われるままに従っていたという。

あとから到着した門弟が、「滝田の奴は横暴だ」「先生を占領している」などと憤慨することも少なくなかったが、滝田はお構いなしにつづけていた。漱石が書いたものを翌週には表装して持参し、箱書きを求めるなど、気分を盛り立てるのも上手く、漱石は半分は好きな手習いをさせてもらっているような気持ちで、多くの書画をかいた。そして結果として、この滝田の働きによって漱石の多くの遺墨が後世に残されることになったのである。

掲出のような歌を残し、滝田は大正14年(1925)、43歳で没した。日頃から「太く短く」と口癖のように言ってもいたが、その思い通りに駆け抜けた人生だったのだろう。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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