文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「時代に没頭していては時代を批評する事ができない」
--石川啄木
東京朝日新聞社は、かつて京橋区滝山町(現在の銀座6丁目)にあった。その跡地に、先頃、東京銀座朝日ビルディングが竣工した。そびえ立つその外観は、往時を回顧するには立派過ぎる。明治の昔をわずかながら偲ばせるのは、むしろ、並木通り沿いの歩道脇にある石川啄木の歌碑の方だろうか。
「京橋の滝山町の/新聞社/灯ともる頃のいそがしさかな」
啄木は明治42年(1909)3月、校正係として東京朝日新聞社に入社した。月給25円、夜勤手当てを合わせると約30円。翌年には新設の朝日歌壇の選者を任され、別枠で月10円の俸給が追加された。
自ら天才を以て任じながら、つねに手元不如意。64件、1千372 円50銭にも及ぶ借金メモを作成していた啄木にとって、この頃が経済的には一番の安定期であっただろう。
だが、それも長くはつづかなかった。病により出社不可能となり、その病はそのまま26歳での早世につながるのである。
歌人として余りにも有名な啄木だが、実は彼の第一の志は、必ずしも短歌にはなかった。小説を書いて作家として立ちたいと思いながら、果たせずにいた。随筆的評論『食うべき詩』にこんな一文が読める。
「私は小説を書きたかった。否、書くつもりであった。又実際書いて見た。恰度夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使する事に発見した」
『歌のいろいろ』の末尾に、「歌は私の悲しい玩具である」と綴ったのも、そのあたりの微妙な心情の現われでもあったろう。
さらにいえば、啄木は文人であるよりも、思想家であり、革命家でありたいと考えていた節がある。大逆事件で処刑された社会主義者の幸徳秋水にも、深い共鳴と同情を示している。
前出の『歌のいろいろ』には、こんな一節もある。
「真に私に不便を感じさせ苦痛を感じさせるいろいろの事に対しては、一指をも加えることが出来ないではないか。否、それに忍従し、それに屈伏して、惨ましき二重の生活を続けて行く外にこの世に生きる方法を有たないではないか。(略)私の生活はやはり現在の家族制度、階級制度、資本制度、知識売買制度の犠牲である」
『時代閉塞の状況』に綴った掲出のことばも、社会を変革したいと希求する啄木の心の叫びであったような気がしてならない。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。
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