文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。死去に際し、知友及び多年の読者各位に厚く御礼申します」
--菊池寛

作家で文藝春秋の創業者である菊池寛は、精神的には、かなり強気の「強心臓」の持ち主だった。文藝春秋社に乗り込んできた過激右翼に対して一歩も退かず、また送付した抗議文の表題を勝手に変えた『婦人公論』編集部に単身乗り込んでいったこともあった。

だが、肉体的にはその心臓にこそ弱点があった。大正13年(1924)、満36歳の誕生日を間近にして、最初の狭心症の発作に襲われて以来、菊池寛は独得の気配りをしていた。

たとえば、人に会ってもお辞儀をしない。日本式のお辞儀は、心臓を圧迫するという理屈であった。また、ホームで汽車がいま発車しようとしているのを目の前にしても、けっして走らない。悠然と見送ってしまう。もちろんこれも、走ると心臓に負担をかけるという理由からだった。

心臓への気配りから、海などに行っても、泳ぐのはほどほどにして控えていた。この様子を眺めるともなく眺めていた友人知己の間から、いつしか「菊池はあまり泳げないらしい」という噂が持ち上がった。ついには、そのことを雑誌に発表する者までが出てきた。

菊池は反撃のペンをとった。

「僕の水泳についてちょっといっておきたい。それは社の菅忠雄が、サンデー毎日に、僕が二十間ぐらいしか泳げないようなことをかき、小島政二郎に至っては、僕が一間ぐらいしか泳げないようなことをかいているが、僕は海近く生れ、小学一年から七、八年ぐらい水府流の先生について毎夏稽古をしているので、心臓さえ強ければ三マイルや五マイルは平気で泳いでみせる。鎌倉などでは、心臓を心配して沖へ出ないため泳げないように見えるが、プールでなら今でも心臓のつづく限り泳いでみせる。(略)小島政二郎のような、隅田川の泥水で稽古した泳ぎなどに、負けないつもりである」(『半自叙伝』)

古式泳法「水府流」の名前まで持ち出し、友人に対するライバル意識を剥き出しにしているあたり、なんだかやんちゃ坊主のようでもある。

昭和23年(1948)3月6日、菊池寛は急逝した。享年59。死因はやはり狭心症だった。葬儀は6日後の3月12日、小雨の降る護国寺でおこなわれた。焼香者は、文壇、政財界の名士、読者を含め数千人にも及び、戦後最大の葬儀といわれた。

死後に開封した遺書に、掲出のことばが書かれていた。生前の物怖じしない強心臓ややんちゃぶりとは異なる、周囲への静かな感謝に満ちたことばだった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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