文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「私は江戸っ子になりきろうと思って、なんでも江戸っ子のまねをしました」
--セルジュ・エリセーエフ

明治期の日本と日本人が前のめりになって西洋化を進めている一方には、日本に深い興味と親しみを持ち、日本研究に身をひたした西洋人もいた。セルジュ・エリセーエフもそのひとりだ。

帝政ロシアの大富豪の御曹司として生まれたエリセーエフは、明治末期の日本にやってきて、東京帝国大学で日本文学を学んだ。卒論のテーマは松尾芭蕉。その足跡を追ってみちのくを行脚し、日本語で見事な論文を書き上げ、高い評価を獲得。卒業式には、明治天皇の前に、銀時計組と伍して並ぶことを許されたという。卒業後は、大学院に進んでさらに研究を深める傍ら、江戸っ子的な暮らしを実践した。

掲出のことばは、晩年パリに落ち着いていたエリセーエフが、共同通信のパリ支局長を勤めていた評論家の倉田保雄のインタビューに答え、当時の自分を振り返って語った台詞。つづけて、こうも言ったという。

「和服を着て下駄をはいて銭湯であついお風呂に入ったものです。下町の朝湯で町内の江戸っ子たちと一緒に手拭いを頭にのせて浪花節をうなるのを聞きながら、あつーいお湯につかっているのはいい気持ですね」

日本留学当時のエリセーエフの親友は、漱石の門弟の小宮豊隆だった。一緒に歌舞伎を見に行ったり、花柳界でのお座敷あそびにも興じた。その小宮の紹介だろうか、エリセーエフは漱石山房の「木曜会」にも出入りし、漱石の薫陶を受けた。ある日の漱石の日記には、こんな記述もある。

「エリセエフ、東、小宮、安倍能成来る。エリセエフは露人なり。『三四郎』を持ってきて何か書いてくれと云う」

これは、明治42年(1909)6月24日夜の出来事。雨が降っていたため、エリセーエフは袴の股立ちをとって漱石山房に赴いた。持参の『三四郎』を差し出し何か一筆したためてほしいとエリセーエフが頼むと、漱石は求めに応じ、「五月雨や股立ち高く来る人」の一句を書きつけてくれたという。

ロシアに帰ったエリセーエフは、ペテルブルク大学で日本文学を講義した。テキストは漱石の『門』だった。大正5年9月1日付の芥川龍之介、久米正雄あて漱石書簡には、

「エリセフ君はペテルブルク大学で僕の『門』を教えているのだから、是には本式の恐縮を表します。その上僕の略伝を知らせろというのです。何でも『門』を教える前に、僕の日本文壇に於る立場、作風、etc という様な講義をしたというのだから驚天します」

との一節も読める。

その後、ロシア革命が起こりボルシェビキ時代となると、大富豪は人民の敵とされ、エリセーエフと家族はヨーロッパへ亡命した。しばらくフランスに落ち着いていたが、米国ハーバード大学に東洋語学部が新設されるに当たって招聘され、渡米。それから23年間にわたり、日本学、日本文学を講じた。その教え子のひとりが、のちに駐日アメリカ大使をつとめるエドウィン・O・ライシャワーだったという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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