今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「同じ処にうめて頂く事をくれぐれもお願い申し上げます」
--松井須磨子

新劇女優の松井須磨子は、明治19年(1886)長野県に生まれた。本名は小林正子。戸板裁縫女学校卒業後、木更津の旅館に嫁ぐが、まもなく離縁。その後、東京高等師範学校の学生である前沢誠助と知り合い再婚した。この前沢は演劇好きで、家には俳優志願の若者が頻繁に出入りしていた。その影響で、須磨子も知らず知らずのうちに演劇に関心を持つようになったという。

坪内逍遥主宰の文芸協会附属演劇研究所の試験を受け、一期生として入学。そこで島村抱月と出会った。島村は東京専門学校(早稲田大学の前身)で美学や近代英文学史、文学概論などを講義する傍ら、演劇研究所の講師をつとめていたのである。

明治43年(1910)春、文芸協会は第1回公演としてシェークスピアの『ハムレット』を上演した。松井須磨子はオフィーリア役を熱演し注目を浴びた。演劇熱にとりつかれた須磨子は、秋には前沢と離婚。その後、島村抱月の訳・演出による『人形の家』のノラを演じて、劇団の看板女優となった。

ただし、ロンドンで本場の舞台を観ている夏目漱石には、文芸協会の『人形の家』は違和感が先に立ったようだ。明治44年(1911)11月に帝国劇場でこの劇を鑑賞した漱石は、日記にこんなふうに書いている。

「すま子とかいう女のノラは女主人公であるが顔が甚だ洋服と釣り合わない(略)ノラの仕草は芝居としてはどうだかしらんが、あの思い入れやジェスチュアーや表情は強いて一種の刺激を観客に塗り付けようとするのでいやな所が沢山あった」

わざとらしさばかりが目についたということか。なかなかに手厳しい。

須磨子と、妻子ある島村抱月との間に恋愛関係が生じたのは、この頃からだった。島村の妻からの訴えを受けて、坪内逍遥はふたりを別れさせようとするが、両人はかえって反発。島村は妻子も大学教授の職もなげうって須磨子と同棲生活に入る。同時に、ふたりは文芸協会をも離れ、芸術座を結成した。

そんなことがありながら、女優・松井須磨子の人気は、衰えるどころか、いよいよ高まっていった。劇中歌を歌うのが芸術座の演出の売りもののひとつだったが、とりわけトルストイの『復活』の劇中で須磨子が歌う『カチューシャの唄』は絶大な人気を博し、レコードにもなった。

大正7年(1918)10月の末、松井須磨子はスペイン風邪に罹患した。島村は高熱を出した須磨子を看病していたが、その風邪は島村に感染。11月4日、島村はあっけなく逝去してしまった。その死を知って島村の妻子が駆けつけ、遺体はすぐに運び去られ、その後、雑司ヶ谷霊園に埋葬された。

それから2か月が経過した大正8年(1919)1月5日、須磨子は芸術倶楽部の舞台裏の道具部屋で自ら命を絶つ。遺書には、こう書かれていた。

「私はやはりあとを追います。あの世へ。あとの事よろしくお願い申上げます。それから只一つはかだけを同じ処に願いとうございます。(略)幾重にも御願い申上げます。同じ処にうめて頂く事をくれぐれもお願い申上げます」

だが、この願いはしょせん叶うことではなかった。須磨子の遺骨は、生家(長野市松代町)の裏山の墓所に埋められたという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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