文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「掌に 小虫をのせ あるかせる その急ぎ足を かなしむ 人生に似ている」
--高見順

高見順は明治40年(1907)福井県の生まれ。昭和5年(1930)に東大英文科を卒業している。激動する時代状況の中で、ダダイズムやアナーキズム、マルキシズムなどの文学運動に影響を受け、日本プロレタリア作家同盟の一員となり、治安維持法違反容疑で逮捕されたこともあった。

大学卒業後、一時、コロムビア・レコードに勤務したが、昭和10年(1935)に発表した小説『故旧忘れ得べき』が第1回芥川賞候補となって脚光を浴び、原稿依頼が増大したことから退職。筆一本の生活に入った。その後の代表作には『如何なる星の下に』『いやな感じ』などがある。日本近代文学館を創設し、資料の保存・収集に尽力した功績も大きい。

一方で、高見は鋭敏過ぎるほどの神経の持ち主であった。こんなエピソードがある。大量に所蔵する雑誌を山積みにしていると崩れてくるので、夫人が紐で縛ろうとすると、「雑誌が痛がってるじゃないか」と文句を言う。一番上と下の雑誌の紐の当たるところが食い込んでクビレができるのを嫌がるのである。本や雑誌が逆さになっているのを見れば、「血が下がるじゃないか」と怒ったという。

尖端恐怖や白壁恐怖のノイローゼにも陥った時期もある。出版社を訪ねても、筆立てに尖った鉛筆が立っているのを見ただけで耐えられなくなる。映画を見ていてスクリーンの中にアパートの白壁が映し出されると、それが怖くてたまらないのだった。家の中でも、先の尖ったものはすべて夫人が隠したほどだった。

そんな高見順にガンの診断がくだされたのは、昭和38年(1963)10月だった。手術のために入院する前日、高見は銀座のバー「エスポワール」に文壇・財界関係者を集めて、「お別れ」パーティを開いている。みんなが沈み込んだ雰囲気の中で、高見が一番よく飲み、よく食べていたという。鋭敏な神経の奥に強靱な精神をひそませていた。4度にわたる大手術。1年10か月の闘病ののち、高見は昭和40年(1965)8月17日に絶命した。掲出のことばは、その病床で書きとめた詩の一節。これらをまとめた詩集『死の淵より』は、本人も予期せぬベストセラーとなった。

病床の高見には、他にも、まだ連載途中の完成させたい作品があった。死を目前にして、夫妻はこんな会話を交わしたという。

「1年か2年でいい、両手両足を差し上げますから、頭と口が明晰なら、おまえが口述筆記してくれればいい、一緒に神様に頼んでくれ」
「じゃあ、私の寿命があと幾らあるか知らないけど、お互いの余命を足して半分にしましょう。あなたがあと1年で私が5年あるとすれば、それを半分こにすると丁度いいから」
「そんな冗談はよしてくれ。もし俺の方が残ったらどうする!」

絞り出すような高見順のこの台詞を、夫人はのちのちまでずっと胸に刻み込んでいたという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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