今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「一匹多いぞ。俺は家を出る!」
--大佛次郎

えー、一席おつきあい願います。

猫好きの文豪ってえと、たいがいのお客さまが、夏目漱石を頭に思い浮かべるかもしれません。なんせ、漱石先生には、ご存知、あの『吾輩は猫である』っていう名作がございますからね。

だけど、漱石先生、見方によっては、ちょっとクールに猫とつき合っていたようにも思えます。というのも、飼い猫にとうとう名前をつけてやらなかった。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」ってのは、あの名作の有名な書き出しですが、小説そのままに、家の飼い猫にも名前をつけてやらなかったんでございます。

一方で、飼い犬には、「ヘクトー」という立派な名前をつけています。ヘクトーですよ。ポチとかシロなんて、そこらに転がってるような名前じゃない。ヘクトー。トロイの木馬が出てくる古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』に登場する英雄の名前だってんですから、やっぱりワタシらとは、学が違いますねえ。流れ石。いや、さすがです。

じゃあ、文壇における真の猫好きは誰か……。いろいろ候補はありましょうが、本日は『鞍馬天狗』で名高い大佛次郎のお話をご紹介させていただこうかと存じます。

この先生は、そりゃもう、たいへんな猫好きでした。奥様は元女優の美しい方で、夫婦仲もよろしかったようですな。かたや大佛先生も、身長180 センチのすらりとした長身で、スポーツ万能。ご夫婦で、テニスやスキー、ヨットなんかを楽しまれたそうです。絵に描いたような美男美女が、優雅にスポーツを楽しむ姿は、いやあ、想像しただけでも眩しくなりますね。こう、なんか、思わず、目を細めちまいますねぇ。えっ、なんですって、もともと五木ひろしみたいな細い目だから、おんなしだって。余計なお世話ですよ。

さて、この元女優の奥様が、先生に負けず劣らずの猫好き。「愛猫家」ってやつでした。自然と家には猫が増えて、いつのまにやら10匹以上の猫が自宅にいるような暮らしになっていきました。ご夫婦の間にはお子さんもありませんでしたから、子供を見るような目で猫たちを育てていらっしゃったのかもわかりません。

いくら好きでも、野放しにしておくと、捨て猫がいついたりして際限なく頭数が増えてしまう恐れがあります。一家の主としては、歯止めをつくることも必要ではないか。そう考えた大佛先生は、あるとき、奥様に対してこう宣言しました。

「猫は15匹が限度。それを超えたら主人の俺の方が家を出るからな!」

何もそんなに威張って言うようなことでもないと思うんですが、奥様の方もともかく「わかりました」と応じます。先生も、けっして無茶な数字を言ってるわけではありませんからね。そうして、しばらくは、夫婦ふたりと猫10数匹の、平穏な暮らしが続いていったのです。

ところが、それから何か月かが過ぎたある朝のことです。猫たちは、いつものように奥様が用意した餌を無心に食べていました。可愛いもんです。珍しく早起きした大佛先生がそばにやってきて、その猫たちの姿をやさしい眼差しで見つめます。そして、なんとなく口の中で猫の数をかぞえてみます。

「1、2、3、4……、13、14、15、あれ」

先生、ちょっと険しい顔になって、もう一度数えてみます。

「1、2、3、4……、13、14、15、16」

そう、あろうことか16匹いたのです。自ら宣言した規約の手前がありますから、先生は意を決したように奥様に言います。

「一匹多いぞ。俺は家を出る!」

そのとき、奥様、すこしも慌てず、向こうの端の猫を指さすようにして。

「その猫は、よそからお招きしたお客さま。御飯を食べたら帰ることになっています」

これがほんとの招き猫。おあとがよろしいようで……。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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