「今『自分は不運だ』とがっかりしたら、一生の負けで終わりになる」(長谷川伸)【漱石と明治人のことば111】

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今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「運、不運はそのときだけのもの、運がのちに不運ともなり、不運がのちに運のもとになることがある。今のおまえが『自分は不運だ』とがっかりしたら、一生の負けで終わりになる」
--長谷川伸

劇作家で大衆小説家の長谷川伸のことば。苦楽を味わい尽くした本人の半生から、実感として導き出されたものだろう。

長谷川伸は、父が事業に失敗したため小学校を3年で中退。横浜船渠の工事請負人の小僧となったのを振り出しに、品川の遊廓で出前持ちや走り使いをするなど、幼い頃から苦労した。港に落ちている新聞のルビを読んで漢字を習い覚え、雑用係として新聞社入り。やがて記者となり、次第に文業の世界に関わるようになった。

生母とも早くに生き別れ、47年の歳月を経て再会。この実体験が後年の名作『瞼の母』につながったという。

他にも『沓掛時次郎』『一本刀土俵入』など、いわゆる股旅物の作品を多く生み出した。大衆受けする一方で、一部の識者からは低級なものと非難されることもあったが、長谷川は意に介さなかった。「股旅者も、武士も、町人も、姿は違え、同じ血の打っていることに変わりはない」という信念があった。

長谷川伸は、後進の育成にも力を注いだ。

池波正太郎も愛弟子のひとりだった。戯曲家としてスタートした池波に、小説を書くように進めたのも長谷川であった。

池波は何度も直木賞候補に上げられながら落選を繰り返した。昭和35年(1960)、『錯乱』が候補になったときも、自分は「万年候補」だからまた落選するな、と諦めかけていた。ところへ、受賞の知らせが届く。

池波は勇んで芝二本榎の師匠の家へ行き、報告した。さぞや喜んでくれるものと期待していた。ところが恩師はニコリともせず、むしろ冷然として、ただ一言「よかったね」。池波はちょっと拍子抜けしてしまった。

あとで、長谷川夫人がそっと池波に教えてくれた。

「あなたが見える少し前に、知らせがあったのよ。その電話のベルが鳴ったら、旦那さまは書斎からすっ飛んできたわよ。そして、興奮してるの。声がうわずっていたわよ」

実際は当人以上にそわそわして発表を待ち、大喜びに喜んでいながら、それを無理にも抑制して淡々たる姿を見せた。照れもあったのかもしれないが、それが長谷川伸の、池波に対する愛情の示し方であったのだろう。

静かな祝辞には、「あまりはしゃいではいかん、ここからが大事。いいことも悪いこともあるだろうが、黙々と仕事をつづけなさい」との訓示もこめていた。そんなふうに思えるのである。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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