文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「奉仕を続けていれば天は何かを与えてくれる」
--藤村治太郎
藤村治太郎は明治11年(1878)、岩手・盛岡の生まれ。家は造園業を生業としていて、治太郎も植木職人となり、やがて2代目として跡を継いだ。掲出のことばは、藤村治太郎が新渡戸稲造からいわれたことばで、家訓として後世に引き継いだものという。
この藤村治太郎が地元新聞に3段抜きの大見出しで紹介されたのは、昭和7年(1932)9月6日、数え55歳の折だった。見出しは「物云はぬ石割桜を火焔から救つた人」。一体、何かあったのか。
記事が掲載される4日前、9月2日の夜、盛岡の中心部にある盛岡裁判所が火事となった。治太郎の息子で植木職の益治郎は、地元の消防団員でもあったので、知らせを聞くとすぐに現場に駆けつけた。裁判所の建物から大きな火の手があがっている。
裁判所の敷地内には、樹齢二百数十年とも伝えられる桜の古木が枝を広げていた。それも、ただの古木ではない。周囲約21メートルの巨大な花崗岩の割れ目から地中に根を張って力強く立ち上がり、「石割桜」の名前で人々に親しまれていた。
建物を燃やす炎からは、この桜にも熱い火の粉がふりかかっている。その傍らで半纏姿で動き回っている職人の姿を見て、益治郎はあっと驚いた。それは他でもない、自分の父親、藤村治太郎だったのである。
この日は実は、治太郎の娘(益治郎の妹)の結婚式があり、治太郎は祝いの酒を過ごし、酔って早々に眠りについた。なのに、下戸で酒を飲まぬ益治郎より早く、火事の現場に駆けつけていたのだ。
治太郎は消防団員に向かって、桜にも水をかけるよう、大声で指示する。
「建物は焼けても再建できるが、これは燃えたら再生できんぞ!」
父の声に、息子も懸命の消火活動に加わる。治太郎はしまいには着ていた半纏を脱いで水に浸し、桜の幹に巻きつけた。そんな獅子奮迅の働きの中で、水に濡れた岩に足を滑らせて転倒し、前歯を何本か折る怪我も負った。それでも、息子と力を合わせ、石割桜だけは火の手から守り通したのだった。
その後も、治太郎は、幹の裂けたところに腐蝕が進まぬよう粘土をつめ、濡らしたムシロで幹を覆って余熱をとり、石の割れ目に肥料を施すなど、できる限りの手当てをした。その甲斐あって瀕死の桜は蘇生した。
この時の火事以来、藤村の家では代々、無料奉仕で石割桜の世話をし、現在は5代目当主がその役割を引き継ぐ。背景には無論、新渡戸稲造発祥の家訓があった。
石割桜は、平成の今も、春になると開化し、壮麗な美しさで人々を魅了する。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。