「いざ胸をはり風に乗り 空の彼方に去なんかな」(火野葦平)【漱石と明治人のことば285】

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文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「我もと雲の性(さが)なれば かかる塵の世なんであろ いざ胸をはり風に乗り 空の彼方に去(い)なんかな」
--火野葦平

火野葦平(ひの・あしへい)が東京の仕事場である鈍魚庵(大田区池上)で催す忘年会が、まことに盛大だった。

まずは「誘惑状」と書いた案内状が届く。

「世界と地球とが変てこになりつつあるとき、われわれ文学を愛する酒童(しゅっぱ)あつまって、ワイワイ申したく存じますので、なにもかもほったらかしてお集まりください」

そんな調子で呼びかけ、会費については「ただ、三百円、五百円、千円、一万円、五万円、十万円、百万円、身分祿高に応じて勝手次第」と綴る。

当夜は、九州から空輸されてきた河豚の刺身が古伊万里の大皿に30皿ほど盛られ、ビール、日本酒、ウイスキー、泡盛などがずらりと並ぶ。集うは、編集者、新聞記者、映画関係者、作家仲間、画家、俳優、落語家、飲み屋の女将など数十人。歌や踊りもまじえた賑やかな酒盛りが夜更けまでつづく。

誰もが勝手次第の会費は「ただ」を選択するため、費用はすべて火野葦平の散財で賄われたという。昭和30年(1955)頃の話である。

火野葦平は明治40年(1907)福岡県北九州市若松の生まれ。本名・玉井勝則。父の玉井金五郎は愛媛・松山から出てきて、若松港石炭仲仕の親分として玉井組を起こした人物。母のマンがこれを支えていた。

昭和12年(1937)9月、火野は応召され杭州湾敵前上陸に参戦した。入営の前日まで筆をとって小説『糞尿譚』を書き上げた火野は、雑誌『文学会議』に送付していた。この作品が第6回芥川賞に選出され、異例の戦地での授与式が行なわれた。作家となった火野は報道班員に任命され、『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』という三部作を発表して国民的人気を獲得していく。

敗戦後は「戦争作家」のレッテルを貼られ追放指定を受けるという苦い経験もあったが、父母をモデルにその足跡を描いた『花と龍』で復活した。この作品は繰り返し映像化されている。

火野の本質は、やさしく夢多きロマンチストなのだったと思う。この世にいないものに憧れ、多くの河童(かっぱ)作品(小説43篇、詩12篇)を紡いでもいる。「河童音頭」を作詞し、宴のあとには皆で肩を組み歌ったりもしていた。酒好きの仲間を「酒童(しゅっぱ)」と名づけたのも、河童からの連想だった。

掲出のことばは、その河童音頭の末尾の一節。火野葦平のやさしさとロマンの香りが漂っている。

昭和35年(1960)1月24日、火野は自伝『革命前夜』を書き上げた直後、自ら空の彼方にとび去った。枕元に置かれた芥川賞受賞記念の懐中時計は、故障して止まったままであったという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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