文・写真/秋山都

最近は蕎麦屋でお酒を飲むことを「蕎麦前」と呼ぶが、その言葉、古いようでいて新しいのではないだろうか。

たとえば池波正太郎は蕎麦屋で飲むことをこよなく愛し、エッセイや小説にも頻繁に書いているが、「蕎麦前」とは言っていないように思うのだが……などと抗っていても仕方がないか。言葉が新しかろうが古かろうが、蕎麦屋で杯を傾けるのは、何より気楽で幸せな時間だ。

一般に蕎麦屋で飲むといえば、まず「板わさ」「焼きのり」「玉子焼き」などが浮かぶだろう。蕎麦好きを自認する人なら「天抜き」「鴨抜き」などとおっしゃるかもしれない。

念のために説明しておくと「抜き」とは「台抜き」の略であり、「天抜き」なら「天ぷらそばの台抜き」、つまり蕎麦を抜いて汁に天ぷらが入っている状態を指す。往々にして小どんぶりに入ってくるこの天抜き、鴨抜きをつまみながら冷やの酒をチビリチビリと飲むのは、なんとも粋な楽しみ方のように思える。

ということで、かつ煮だ。これはいわば“かつ丼の台抜き”だが、このかつ煮が隠れた人気メニューだという蕎麦屋が、東京・日暮里の『川むら』である。かつ煮を蕎麦前にするとはあまり聞いたことがないだろうが、百聞は一見にしかず。ぜひ試していただきたい。

大正時代に白金から日暮里へ移転した「川むら」。現在は4代目の主人、越康次さんが蕎麦を打つ。

『川むら』は、創業が明治初期までさかのぼるという老舗。近所の住人はもちろん、谷中霊園が近いこともあって、墓参帰りの人も多いが、最近は谷根千(谷中・根津・千駄木)ブームもあって観光客も多くやってくる人気店だ。

かつ煮は3代目である先代が、常連のわがままに応える形でメニュー(ここは品書きというべきか)に載せたのが始まりのようである。

かつ煮1,100円。揚げたてのトンカツをまるまる一枚、出汁とともに味わう。

注文が通ってから揚げた熱々のトンカツは、ジュッと音がするように出汁にひたされ、玉ねぎと半熟卵の衣をまとって、フルフル、ヒタヒタと運ばれてくる。

衣にはすぐ出汁が沁みるので、汁をこぼさないように口へ運び、追って酒をチビリ。端の脂が勝った部分には七味をパラリ。酒グビリ。

とんかつと出汁と日本酒がこんなにあうとは。かの池波正太郎さんはこの旨さをご存じだったろうか。

青唐辛子入り玉子焼きは辛さを調節してくれる。ピリっとシャープな辛味はビールにもあう。

「本当は蕎麦だけで勝負したいんだけね」と主人の越さんは笑うが、つまみがうまいし、それをアテに一杯飲もうという客が多いのだから仕方がない。

ほかに青唐辛子入り玉子焼きや、ホワイトセロリのおひたし、そば豆腐などが人気。

あ、最後にはなったが、もちろん蕎麦も一流である。のど越しのよい二八そばで、ツルッと〆るのを、どうぞお忘れなく。

【川むら】
住所/東京都荒川区西日暮里3-2-1
アクセス/JR「日暮里」駅徒歩3分
電話/03-3821-0737
営業時間/11:30-21:00(LO20:30)
定休日/木曜

文・写真/秋山都
編集者・ライター。元『東京カレンダー』編集長。おいしいものと酒をこよなく愛し、主に“東京の右半分”をフィールドにコンテンツを発信。谷中・根津・千駄木の地域メディアであるrojiroji(ロジロジ)主宰。

 

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