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井伊直虎の居城、井伊谷城。標高114mの低山に築かれた山城。平時、城主は山麓の居館に住み、有事の際に井伊谷城に籠ったと思われる。現在、山頂まで登山道が整備されているが、遺構はほとんど残っていない。

井伊直虎の居城、井伊谷城。標高114mの低山に築かれた山城。平時、城主は山麓の居館に住み、有事の際に井伊谷城に籠ったと思われる。現在、山頂まで登山道が整備されているが、遺構はほとんど残っていない。

文/内田和浩

放映中のNHK大河ドラマの主人公・井伊直虎(いい・なおとら)は、戦国時代に遠江国井伊谷(とおとうみのくにいいのや/静岡県浜松市北区引佐町)の小領主だった井伊家の当主となった女性とされる。なぜ、女性が跡を継ぐことになったかといえば、一族の主だった男子がほとんど死んでしまったからだ。

井伊家当主であった父の井伊直盛(なおもり)は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川方の先鋒として出陣。大将の今川義元の側にいたといわれ、義元とともに討ち死にしてしまう。直盛の子は、出家していたひとり娘の次郎法師(のちの直虎)しかいなかったため、井伊家は直盛の従弟にあたる井伊直親(なおちか)が継いだ。

しかし、この直親も今川氏真(うじざね/義元の子)から謀反の疑いをかけられて謀殺されてしまう。井伊家に残された男子は、直親の子で幼少の虎松だけとなる。そこで次郎法師は虎松が成長するまでの後見として井伊家当主を継ぎ、直虎と名乗ったとされる。直虎が養育した虎松は15歳で徳川家康に対面して仕え、めきめきと頭角を現してゆく。いうまでもなく、この虎松が彦根藩初代藩主となった井伊直政(なおまさ)だ。

井伊直虎の生年はわからない。ただ、亡くなったのは天正10年(1582)8月26日とわかっている。織田信長が明智光秀に襲われて自刃した本能寺の変(6月2日)から約3か月後のことだ。いったい何歳で亡くなったのだろう。父の直盛は生年が永正3年(1506)と大永6年(1526年)の2説があり、父の年齢だけでは判断がつかない。

直虎と直親は許嫁(いいなずけ)だったとされることから、天文5年(1536)生まれの直親とほぼ同年代ではないかという見方がある。大河ドラマもその設定だ。しかし、直虎と直親が許嫁であったということは、直虎の時代から約200年後の江戸時代中期に成立した『井伊家伝記』に記されているだけなので、はたして事実かどうかわからない。

そこで、推測の域をでないけれども、直虎という名から寅年生まれという可能性をあげてみたい。

戦国時代に、名に「虎」を用いた武将といえば、武田信玄の父・武田信虎(のぶとら)、上杉謙信の初名である長尾景虎(かげとら)、そしてややマイナーな武将だが、土佐(高知県)の安芸国虎(あき・くにとら)らがいる。武田信虎は明応3年(1494)の甲寅(きのえとら)、長尾景虎と安芸国虎は享禄3年(1530)の庚寅(かのえとら)の生まれである。藤堂高虎(とうどうたかとら/津藩初代藩主)も忘れるなという声が聞こえてきそうだが、高虎は寅年生まれではない。高虎の父の虎高(とらたか)は、武田信虎から「虎」の一字を与えられたので、高虎も「虎」を継承したのだろう。

もし直虎が寅年の生まれであるとすると、景虎や国虎と同い年の享禄3年か、ひとまわり後の天文11年(1542)が妥当ではないかと思う。天文11年生まれには徳川家康がいる。

享禄3年の場合、井伊家当主となったのが35歳、亡くなったのが53歳。天文11年の場合は23歳で当主になり41歳で亡くなったということになる。大河ドラマの設定であれば29歳前後で当主、47歳前後で没だ。

最近、次郎法師と直虎は同一人物ではなく、直虎は一族の男性ではないかという説(井伊達夫氏による)も話題となった。いずれにせよ、直虎は謎多き人物といえる。

文/内田和浩
1962年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経てフリーランスの編集者・ライターとして独立。日本史や仏教美術関連を中心に執筆。著書に『坂東三十三カ所めぐり』『ふるさとの仏像を見る』など。

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