“敗れ去った者”に対する世間の評価は冷たく、ありもしないことまで言われてしまうのは、昔も今も変わらないかもしれない。

戦国時代の関東地方で250万石という広大な領地を有し、一大勢力を誇った北条氏(ほうじょうし)。その4代目当主・北条氏政(うじまさ、1538~1590)も実像をゆがめられている人物のひとりだろう。

リサイズ2【4代】北条氏政(高画質)

北条氏政肖像画(堀内天嶺模写/小田原城天守閣所蔵)。切腹を命じられたのは、氏政と氏政の弟で八王子城主の北条氏照の2名。氏政と氏照の墓所はJR小田原駅近くにある(住所/小田原市栄町2−7−8)。

北条氏は初代の北条早雲(そううん)が伊豆(静岡県東部)と相模(神奈川県)を奪い取ったのを手始めに、2代氏綱(うじつな)、3代氏康(うじやす)と代を重ねるごとに領地を広げていった。そして、名君の誉れ高い氏康の跡を継いだのが氏政だ。その後、北条氏は氏政の子の氏直(うじなお)の代で、天下統一を進める豊臣秀吉に攻められて滅びるが、氏政は隠居の身とはいえ家中の実権を握っていたので、一般的な評価は、「氏政が北条氏を滅ぼした」とみなされている。

リサイズ2【5代】北条氏直(高画質)

北条氏直肖像画(堀内天嶺模写/小田原城天守閣所蔵)。高野山に追放されたのち秀吉に許されて1万石を賜ったが、まもなく死去(享年30)。氏直の従弟の氏盛が跡を継ぎ、河内狭山藩1万1000石の大名として明治まで続いた。

この氏政にまつわる逸話では、次のふたつがよく知られている。

ひとつは、「汁かけ飯の話」。氏政が飯に味噌汁を2度かけて食べているのを見た父の氏康が「汁の量もはかれないようでは、家臣の心を推し量ることもできないだろう。北条もわしの代で終わりか」と落胆したという話。

もうひとつは、「麦飯の話」。この逸話は、甲斐(山梨県)の戦国大名・武田氏の軍略・事績などについて記した軍学書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に記されている。その内容はこうだ。

あるとき、麦の収穫を見た氏政が、「あの麦を炊いて昼飯にしよう」と言った。もちろん麦は米と同じで収穫した後、乾燥、脱穀など手間ひまをかけてからでないと食べることができない。それを知らずに「昼飯にしよう」と言い出した氏政に対し、そのセリフを聞いた武田家当主の武田信玄が、「氏政のような育ちのいい者は、麦などは食べたことがないのだろう」と嘲(あざけ)り笑ったという。

いずれも、氏政が暗愚(あんぐ)な人物だったことを伝える逸話だが、前者は出どころも不明な巷説(こうせつ)のたぐい。また、『甲陽軍鑑』の逸話も、武田信玄をもちあげた「上から目線」の内容なので実話かどうか疑わしい。ふたつの逸話は「国を滅ぼした愚か者の氏政」というイメージを捏造した可能性は否定できない。

「汁かけ飯」の逸話は、NHKの大河ドラマ「真田丸」でも取り上げられていた。ドラマの中で氏政が何度も汁をかけて食べるのは、「こうして徐々に味わうように国盗りをしていくのだ」という意図的なもので、この“新解釈”に「そういう見方もあったか」と感心する視聴者も多かったようだ。

実際の氏政は、越後(新潟県)の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)、三河(愛知県)の徳川家康、奥羽(東北地方)の伊達政宗などの強敵に囲まれる中で、北関東や房総半島にも勢力を広げ、北条氏の最大版図をつくりあげている。とくに江戸を中心にした地域再編を進めていたことは、のちに徳川家康が江戸に本拠を置く前提になったという評価(駿河台大学教授・黒田基樹氏による)もある。

リサイズIMG_0002

小田原城天守閣。北条氏降伏後、関東には徳川家康が入封。家康は譜代の家臣、大久保忠世(おおくぼ・ただよ)を小田原城主とした。のち小田原藩主は阿部氏、稲葉氏、大久保氏と替わって明治を迎える。現在の小田原城天守閣は明治初年に取り壊されたのち、1960年に外観復元されもの。2016年5月、約1年にわたる修復工事を終えてリニューアルオープンした。写真提供/小田原城天守閣

では、なぜ北条氏は滅んだのか――。

ひと言でいえば、秀吉に臣従する時機を逸したということだろう。西日本を平定した秀吉が天下統一のためにいずれ関東に攻めてくることは必定だった。北条氏の若き当主・氏直は、徳川家康の次女を妻にしていたことから、義父である家康が仲介役となって秀吉に従属する方向で進んでいた。秀吉が「氏政か氏直のどちらかが京都へ挨拶に来い」と命令したため、氏政が行くことになったが、ずるずると引き延ばしてなかなか行こうとしない。

すでにこのとき、父・氏政と息子・氏直の関係に溝ができていた。「秀吉などにそう簡単に頭を下げられるか」というプライドからなかなか腰をあげない氏政と、「はやく父を上洛させないとまずい」と焦る氏直――。そうこうしているうちに、北条氏の家臣が、徳川家康に従っている戦国武将・真田昌幸の城を奪ってしまうという事件が起きる。

じつはこれ以前に、秀吉は大名同士の私的な戦を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を出していた。ようするに、「わしの許しなしにはケンカをしてはならん」ということだ。この命令を無視することは秀吉に敵対する意味をもつ。それを北条氏はやってしまったのだ。

この危機的状況に至っても氏政の上洛は引きのばされ、ついに秀吉は「なぜ氏政は直接謝罪に来ないのだ!?」と激怒し、北条攻めを決定する。氏直は、「真田の城を奪ったのは家臣が勝手にやったことで、われわれは知らなかった」と弁明し、「(父の)氏政が上洛したらそのまま拘束されてしまうおそれがある。なにかしらの交換条件を示してもらいたい」と申し出たが、もう手遅れだった。

この氏政の上洛引き延ばしは、氏政と氏直というふたりのトップの意思疎通がはかられておらず、最重要課題を誰も決定できないまま、ずるずると時だけが過ぎていってしまった感がある。つまり、ひとりひとりの優劣の問題ではなく、組織に問題があったのである。

氏政と氏直が籠(こ)もる北条氏の本拠・小田原城は難攻不落といわれていたが、豊臣秀吉が率いる20万を超す大軍に包囲され、3か月で降伏した。結果、氏政は切腹を命じられ、氏直は家康からの助命嘆願によって高野山(和歌山)へ追放となった。

リサイズ【既指定地】八幡山古郭・総構(小峯御鐘ノ台大堀切東堀))

小峯御鐘ノ台大堀切東堀(こみねおかねのだいおおほりきりひがしほり)。秀吉との合戦に備えて造られた大規模な空堀(からぼり=水のない堀)の遺構。現在の小田原城天守閣の西北約1㎞にある(住所/小田原市城山3-30)。写真提供/小田原市文化部文化財課

氏政の首は京に送られて、秀吉の華麗壮大な邸宅である聚楽第(じゅらくだい)の前でさらされた。また、助命された氏直も翌年に疱瘡(天然痘)を患い、この世を去る。これによって、約100年にわたって関東に覇を唱えた北条氏の直系は絶えることとなったのである。

取材・文/内田和浩

参考文献:黒田基樹『小田原合戦と北条氏』/黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』/齋藤慎一『戦国時代の終焉―「北条の夢」と秀吉の天下統一』/『別冊歴史読本 戦国の魁 早雲と北条一族』/下山治久『小田原合戦―豊臣秀吉の天下統一』)

 

 

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