大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)は、伊勢神宮の祭主(神官の長)を務め、歌人としても三十六歌仙の一人に数えられています。この経歴からもわかるように、大中臣氏は代々、神祇をつかさどる家柄であり、和歌にも秀でた人物が多く、父・頼基(よりもと)、能宣、息子・輔親(すけちか)、孫・伊勢大輔(いせのたいふ/『小倉百人一首』61番)など、6代に渡って歌人を輩出。
「重代の歌の家」とも賞されました。能宣は31歳にして“梨壺(なしつぼ)の五人”に選ばれ、『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の選定にあたります。また、数々の歌合に出詠し、円融・花山両天皇から家集を召されるなど活躍。屏風歌や行事和歌で清原元輔(もとすけ、清少納言の父)と双璧と称えられました。
目次
大中臣能宣の百人一首「みかきもり~」の全文と現代語訳
大中臣能宣が詠んだ有名な和歌は?
大中臣能宣、ゆかりの地
最後に
大中臣能宣の百人一首「みかきもり~」の全文と現代語訳
みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ
『小倉百人一首』49番の和歌です。現代語訳は、「宮中の御門を守る衛士が焚くかがり火が、夜は燃え、昼には消えるように、私の恋心も夜には炎のように燃え、昼には魂が消え入りそうになるほど思い悩んでいます」
みかきもりは御垣守と書き、宮中の諸門を守る者のこと。衛士(えじ)は、諸国から召集される兵士のことです。ここでは御垣守=衛士ですね。衛士は、夜、かがり火を焚いて諸門を守っていました。その「みかきもり 衛士のたく火の」までが序詞 。つまり、前置きで、和歌では、ある語句を導き出すために用いられます。この和歌では、「夜は燃え」「昼は消え」が対句表現になっています。
「つつ」は反復・継続を表す接続助詞。かがり火が夜は燃え昼は消えることが、交互に繰り返され恋の炎も燃え上がりと消沈を繰り返し、昼夜もなく物思いにふける恋心を述べています。「物をこそ思へ」は、恋をして物思いにふけるという意味。「思へ」は「思ふ」の已然形、「こそ」は係助詞で、「こそ~思へ」は強調の係り結びです。
この和歌が誕生した背景
『詞花和歌集』の中の一首で、「題知らず」ではありますが、恋上の部に収録されていることから恋の歌とわかります。「夜」と「昼」、「燃える」と「消える」という視覚的にも鮮やかな対比が、昼夜、まるで別人のように恋に思い悩む男の様子を想像させます。
ところで、藤原公任も「御垣守 衛士のたく火に あらねども わが心の内に 物をこそ思へ」という歌を詠んでおり、他にも衛士の焚く火に着想を得た和歌があることから、この時代、かがり火に我が心を託すということが流行したようです。
大中臣能宣が詠んだ有名な和歌は?
続いて、大中臣能宣が詠んだ和歌を紹介します。
1:ちとせまで かぎれる松も けふよりは 君にひかれて 万代(よろづ)よや経む
「千年までと寿命が限られている松も、今日からは、あなたに引かれて万年の命を保つことでしょう」
『拾遺和歌集』より。宇多天皇の皇子・敦実親王が正月初子(はつね)の日、小松を引いて遊ぶ行事にお供した際に詠んだ歌で、格調高い賀歌として有名です。小松を引くことで、千年続く松の生命力が引いた人へと受け継がれ長寿が約束されると信じられていました。
『袋草紙』(平安時代後期の歌学書)には、この和歌を披露した能宣に対して、父が、「もし帝が主催する子の日に招かれて歌を求められた時はどうするつもりだ。この歌よりうまい歌が詠めるのか」と叱ったとか。それほど優れた一首というわけですね。
2:ゆくすゑの 命もしらぬ 別れぢは けふ逢坂や かぎりなるらむ
「将来の命は知れない。今日、逢坂の関で再会して、こうして別れるのが永久の別れになるのだろうか」
『拾遺和歌集』より。詞書は、「伊勢よりのぼり侍りけるに、しのびて物いひ侍りける女のあづまへくだりけるが、逢坂にまかりあひて侍りけるに、つかはしける」。伊勢神宮に奉仕していた能宣が京へ上るとき、しのんで情をかわしていた女性が東へ下るのと、逢坂の関でばったり出くわした。
その時、女性に贈った歌です。「こんなこともあるのか」というような偶然ですが、「これが永遠の別れになるかもしれない」という切ない思いが伝わってきます。
逢坂の関は、京都から東国への通り道に当たる要所でした。百人一首10番の蝉丸の歌でも有名です。
3:時鳥 なきつつかへる あしひきの やまと撫子 咲きにけらしも
「ほととぎすが鳴きながら山へ帰って行く、その頃、やまと撫子の花が咲いたのだなぁ」
『能宣集』の中の一首。詞書によると、和歌所のあった梨壺の前の庭園に撫子を植えようと、嵯峨野に出向いたときの歌です。
4:我ならぬ 人に心を つくば山 したにかよはむ 道だにやなき
「私ではない人に心を寄せているのですね。せめて、ひそかに通う道だけでもないものでしょうか」
『新古今和歌集』より。現代語訳のとおり、自分以外の人に思いを寄せている女性に贈った歌です。「した(下)にかよふ」は密かに通うの意味。「筑波山」は恋の歌に使われる枕詞です。
「筑波山 は山しげ山 茂きをぞや 誰が子も通ふな 下に通へ わがつまは下に」という風俗歌(古代、地方の国々に伝承されていた歌謡)の本歌取りというのも特徴です。
大中臣能宣、ゆかりの地
祭主として、そして歌人として従事した場所を訪ねてみましょう。
1:伊勢神宮
大和朝廷の時代から江戸時代まで、中臣家、大中臣家が伊勢神宮の祭主を務めました。内宮は皇祖神・天照大神を祀り、神体は三種の神器のひとつ、八咫鏡。外宮の祭神は、農業などをつかさどる豊受大神です。
2:平安宮内裏昭陽舎跡
「平安宮内裏昭陽舎跡(へいあんきゅうだいりしょうようしゃあと)」碑が、京都市上京区浄福寺通出水下ル東入ル北側に立っています。昭陽舎は後宮のひとつで、中庭に梨の木があったことから梨壺とも呼ばれていました。能宣ら梨壺の5人はここに集まり、『万葉集』の訓読作業などを行ないました。
最後に
『勅撰和歌集』に124首が入集し、優雅・華麗な歌の多い『新古今和歌集』 にも選ばれている大中臣能宣の歌。親王を出産した中宮彰子に父・藤原道長が贈った品物には、能宣の家集が含まれていたといいます(『紫式部日記』)。能宣の格調高い和歌は、当時の公家たちの手本でもあったのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●協力/嵯峨嵐山文華館
百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp