恋愛の顛末を記した『和泉式部日記』
和泉式部の父は、越前守大江雅致(おおえのまさむね)。母は平保衡(たいらのやすひら)の女(むすめ)といわれています。父は、朱雀(すざく)天皇の皇女で、冷泉(れいぜい)天皇の皇后であった太皇太后昌子(しょうし/まさこ)内親王に仕えており、和泉式部も娘時代から昌子内親王の屋敷に出仕していたと考えられています。
20歳前後で橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚。夫の官位が和泉守(いずみのかみ)であったことから、和泉式部と呼ばれるようになりました。そして生まれた娘が、のちの歌人・小式部内侍(こしきぶのないし)です。
夫婦仲がどうであったのか定かではありませんが、やがて和泉式部は、冷泉天皇の第3皇子・為尊(ためたか)親王、そして第4皇子・敦道(あつみち)親王とも恋愛事件を起こします。
夫婦関係は破綻。父の雅致からも勘当されてしまいました。為尊親王は長保4年(1002)26歳で亡くなり、翌年春には敦道親王から熱烈にアプローチされたようです。恋は燃え上がり、敦道親王は周囲の反対をよそに和泉式部を自邸に住まわせることに。正妻が家を出て行く事態となりました。
しかし、敦道親王も寛弘4年(1007)に27歳の若さで亡くなりました。この敦道親王との恋の顛末は『和泉式部日記』に詳しく載っており、まだ記憶に新しい時期である、親王の一周忌を待たずに執筆されたといわれています。また、家集『和泉式部集』には、敦道親王への哀傷歌が120余首も収められています。
【藤原道長に招かれ彰子に仕える。次ページに続きます】