夫との不和、愛娘との死別
のちに、道長の家司(けいし/いえのつかさ)だった、藤原保昌(やすまさ)と再婚。保昌が20歳ほども年上でした。夫が丹後守に任ぜられると共に同国へも下りましたが、夫婦生活は必ずしも円満ではなかった点があったようです。
万寿2年(1025)冬、まだ20代だった小式部内侍に先立たれるという不幸に見舞われます。和泉式部は慟哭の歌を多く残しました。その代表的な一首がこちらです。
「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」
(他の人を残して旅立ったあなたは、あの世で誰のことを愛おしく思い出しているだろうか。やはり子どものことであろう。私だってあなたとの死別が何より辛いのだから)
小式部内侍が亡くなった後に、孫を見て詠んだ歌です。『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』に収められています。
晩年の式部の消息は不明ながら、万寿4年(1027)9月、三条天皇の皇后だった、皇大后・藤原妍子 (けんし) の七七日の法事に、保昌にかわって玉の飾りを献上し、詠歌を添えたという記録があります(『栄花 (えいが) 物語』玉の飾り)。
この時期から和泉式部の消息は途絶えます。夫の保昌は長元9年(1036)、摂津守在任中に79歳で死去。2人がずっと共にいたのかはわかりませんが、和泉式部が生きていたとすれば、この頃、60歳前後だったと思われます。
和泉式部の恋人は、本記事に出てくる人物以外にも数人いたといわれ、ほかにも子があったと考えられています。
まとめ
和歌「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」が、紫式部や清少納言に先んじて『拾遺和歌集』に選ばれ、以下、勅撰集に246首もの和歌が選ばれている和泉式部。『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得るなど、大変優れた歌人です。
和泉式部の前半生は華やかな恋愛に彩られていました。一方で恋人や愛娘、夫との不和など悲哀や苦悩の多い人生を歩みます。そうした人生にも思いを馳せながら、ぜひ一度、色褪せることのない彼女の残した秀歌の数々をじっくり読んでみたいものです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用・参考文献/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)