ライターI(以下I):中宮定子(演・高畑充希)が一条天皇(演・塩野瑛久)と引き離され、悲嘆にくれる中で、清少納言(演:ファーストサマーウイカ)が『枕草子』を綴っていく。「たったひとりの悲しき中宮のために『枕草子』は書き始められた」というナレーションが、今も頭の中をこだまして、どっぷり感動に浸かっています。
編集者A(以下A):『枕草子』は多くの人が古典の授業で内容に触れたことがあるかと思います。年配の方の中には「もっと早く大河ドラマでやって欲しかった」という感想を持った方が多いようです。
I:一条天皇と中宮定子の間の「純愛」、中宮定子と清少納言の絆……。ドラマで演じられただけで、解像度が大幅にアップしました。これほど『枕草子』が読みたくなるって、大河ドラママジックですよね……。なぜ、もっと早く大河ドラマでやってくれなかったのかという声が上がるのももっともだと思います。
A:『光る君へ』の時代は初めて大河ドラマで取り上げられたわけですが、「大河ドラマの空白期」はほかにもたくさんあります。例えば古代。国の成りたちについて考えるきっかけになるような大河ドラマは見てみたいですし、必要なことだと思います。その実現こそが公共放送の使命であると、ここでは言い切ってしまいましょう。
I:NHK局内でのハードルも高いのだと思いますが、古代史大河の実現に向けて動き出すスタッフの方が出てきてくれたらいいですね。さて、『光る君へ』の話に戻りますが、越前守を拝命した藤原為時(演・岸谷五朗)が着任早々に訪れたのは松原客館でした。
A:前週も触れましたが(https://serai.jp/hobby/1187717)松原客館は、外国からの使節などを接遇するための迎賓施設。もともと頻繫に使節を送って来ていた渤海国(926年に滅亡)の使節のために造られたものです。
I:渤海国が滅亡して70年ほど経っていますが、よく残っていましたね。
A:当時の松原客館がどのような状況だったのかはよくわかりません。ただ『扶桑略記』によると、919年に渤海国の使節がやってきた時は、薪などが不足していて渤海国使節が不快感を表明したそうです。劇中では故郷に帰りたいという宋人らが騒いでいましたが、あるいは待遇に不満があったのではなかろうかと思ってしまいました(笑)。
為時が披露した漢詩のあれこれ
I:為時らが宋人の食事に招かれました。宋の酒、羊などが振舞われたようです。
A:本編では、鸚鵡(オウム)が「ニーハオ」と話したりしていました。次号予告でも登場していましたが、この時の宋人一行は、羊、鵞鳥(ガチョウ)、鸚鵡などを持ち込んでいたようです。当時の日本では羊の肉はなじみがなかったのでしょうか。
I:天武天皇の時代に「肉食禁止令」が出ていますが、諸国から貢進される産物の中には肉製品があったりします。主に信濃、甲斐などの国々ですね。『延喜式』には、鹿醢、兎醢など、獣肉を塩漬けして発酵させた加工品が記載されていたりします。羊自体は奈良時代に大陸からの渡来品として少数ですが渡ってはきていたようです。
A:なるほど。それでも、当時の日本人にとって羊はハードルが高かったでしょうね。羊肉を口にしたまひろの表情がそれを物語っていました。貴族らにとっては、鴨や雉(きじ)、鶴などの鳥の肉の方がなじみがあったでしょう。
I:さて、宴もたけなわ、ほろ酔い加減の為時が即興で漢詩を詠じ、宋の商人が「素晴らしい漢詩を作られた!」と称賛していました。
A:前週にも触れましたが、菅原道真が渤海国からの使節の接遇を担当した際にも行なわれたようですから、漢詩のやり取りは東アジアの共通儀礼のようなものだったのでしょう。同じように『光る君へ』の前半で登場した打毬(だきゅう)も東アジア各国で行なわれていた「共通言語」のような競技だったようです。
I:それは『渤海と日本』(酒寄雅志著/吉川弘文館)の受け売りですね(笑)。
A:さて、為時が劇中で詠じた漢詩ですが、一条天皇の時代の名作を編纂した『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に収録されています。実は、為時が宋人相手に吟じた漢詩が宋の人々から酷評されていたという説があります。
I:え? そうなんですか。
A:榎村寛之(斎宮歴史博物館学芸員)氏の著書『謎の平安前期』(中公新書)に「『宋史』「日本伝」には、十世紀に越前に渡来した宋の商人、羌(周)世昌が当時の漢学者として知られた藤原為時(紫式部の父)の漢詩を「言葉こそ多いが浅薄だ」と評した記録がある」とありました。
I:劇中では、称賛していたのに、裏ではってやつですね(笑)。
A:東洋大学の森公章先生の論文『朱仁聡と周文裔・周良史 来日商人の様態と藤原道長の対外政策』でも為時の漢詩が酷評されたことに触れられています。為時の漢詩が「中国側には芳しいものとは映じなかったようである」ということです。
I:劇中では即興で詠じた様子でした。おそらくこうした史料の存在を把握したうえでの演出なんでしょうね。
A:さて、この流れを調べてみて思ったことがあるのです。この朱仁聡ですが、この頃に若狭守源兼澄と騒動を起こしていることが知られています。藤原実資(演・秋山竜次)の『小右記』にも記されている事件です。この源兼澄、実は光孝天皇を祖とする光孝源氏なのです……。
I:光孝源氏? といえば、為時に越前守の座をとって代わられた源国盛と同じですね。
A:そういえば、と思って倉本一宏先生の『公家源氏―王権を支えた名族』(中公新書)に掲示されている光孝源氏の系図を参照すると朱仁聡に暴行を受けたという若狭守源兼澄と源国盛は従兄弟という関係でした。
I:ということは、若狭と越前を従兄弟同士が治めていた可能性もあったわけですね。
A:いや、まったくのエンタメ目線なのですが、光孝源氏のふたりの国司が絡んでくるとは。それはそれで面白いな、なんだかミステリアスだなと思ってしまいました。
I:ということで、為時一行は敦賀から国府に移動します。越前国府は現在の越前市の旧武生市内にあったということです。現在、紫式部公園などが整備されていて、私も取材で行きましたが、建物こそ現代のものですが、町並みそのものは古いようで、歴史好きの心をくすぐりました。発掘調査もあわせて進行中とのことですので、何か出土したらいいなと思っています。
A:敦賀が大陸との交流の玄関口だったようですから、35キロほど離れた場所は国府としては最適だったと思われます。国府に到着すると、介の源光雅(演・玉置孝匡)、大掾の大野国勝(演・徳井優)が挨拶にきました。越前は大国ですから、守、介の次はただの掾ではなく大掾になるのですね。
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