編集者A(以下A):『光る君へ』第21回では、越前守になった藤原為時(演・岸谷五朗)が越前に向かう場面が描かれました。国府(現在の越前市)に行く前に、現在の福井県敦賀市にあった「松原客館」に立ち寄ります。現代でいうところの「迎賓館」で、外国賓客をもてなす施設になります。同様に、唐や新羅からの使節や商人をもてなした鴻臚館という迎賓館が7世紀から11世紀の福岡にありました。当時の敦賀にこうした施設が存在していたのは698年から928年にかけて存在した渤海(ぼっかい)国からの使節が頻繁に来日していて、彼らをもてなすために設けられていたからです。
ライターI(以下I):渤海という国は、現在の朝鮮半島北部、中国東北部、ロシア沿海部を領土とした今はなき古代王国ですね。
A:アムール川流域まで領土にしていた国ですから、今思うとすごい国があったものです。この渤海という国は日本とけっこうなつながりのあった国です。渤海史研究で知られた酒寄雅志先生の遺著『渤海と日本』(吉川弘文館)によると、この国は滅亡するまで30数回も日本に使節を送り込んできたようです。今回『光る君へ』では、70人余りの宋人がきたということで騒動になっていますが、渤海使はだいたい100人前後でやってきて、その都度、都にお伺いが立てられていたようです。
I:ということは、若狭にやってきた70人の宋人というのは、幕末のペリーのように突然やってきたということではないのですね。
A:はい。次週本格的に登場してくると思いますが、70人宋人のトップである朱仁聡(演・浩歌)は実在する宋の商人で、『往生要集』を著した僧源信とも交流があったようです。日本に来るのも初めてではありません。前述の『渤海と日本』には興味深い話が数多く記載されているのですが、興味深いのは、元慶6年(882)に渤海使が訪れた時、文章博士だった菅原道真が渤海使の接遇にあたったという記述です。同書から引用します。「渤海使裴頲の接待役として、文章博士の菅原道真(39歳)を仮の治部大輔(臨時の外務次官)に任じ、また道真の師であり岳父でもある美濃介島田忠臣(五十五歳)を任国の美濃から呼び戻して玄蕃頭(臨時の渉外部長官)に任じた」とあります。詩文に通じた渤海使を接遇するために漢詩に通じた人物に接遇を命じたということです。ここにでてくる島田忠臣は20数年前にも渤海使接遇のため、加賀権掾に任ぜられ、渤海使らと漢詩を唱和したそうです。
I:ということは、為時が越前守に任ぜられたのは、漢詩の才を認められたからでもあり、官人同士で漢詩の唱和を行なうのは半ば儀礼的なものだったのかもしれないですね。
A:『光る君へ』では、宋人との漢詩のやりとりなどが描かれるのか、あるいはスルーされるのか、注目ですね。まひろ(演・吉高由里子)も為時の越前入りには同行していますから、宋人から何らかの文学的なヒントを得るのかどうかにも注目したいと思います。前述の『渤海と日本』には、『源氏物語』にも「渤海」関連のことがいくつも押さえられていることが記されています。興味深かったのは、まひろが書写していた白居易の『新楽府』を日本にもたらしたのは渤海使ではなかったのか、という指摘です。
【外交史の中でも重要な施設だった「松原客館」。次ページに続きます】