35歳で即位。道長の威圧もあり失意の退位
永延元年(987)、兼家の三女で叔母の綏子(すいし/やすこ)が東宮妃として入内しますが、永祚2年(990)、兼家は死去。するとその翌年、三条天皇(居貞親王)は、大納言・藤原済時(なりとき)の娘・娍子(せいし/すけこ)を東宮妃として迎えます。娍子は、先々代の花山天皇も入内を望んだほど美貌の誉れ高く、琴の名手で、親王の寵愛を受けます。
第一皇子・敦明(あつあきら)親王も誕生しますが、兼家のあとを継いだ長男・道隆が長女・原子(げんし/もとこ)を東宮妃として送り込みました。しかし、その入内から3か月で道隆が死去、原子も22歳頃に早世。娍子自身も、父・済時がすでに亡くなっていて後ろ盾のない状況で、次女・妍子(けんし/きよこ)を送り込んだのが、道隆亡き後、政権を掌握した道長でした。
寛弘8年(1011)6月、病に臥していた一条天皇が三条天皇(居貞親王)に譲位し、同月に崩御。三条天皇は35歳に即位します。天皇には、18歳になる敦明親王がいたにもかかわらず、皇太子には、道長の長女で一条天皇の中宮・彰子(しょうし/あきこ)の産んだ、敦成(あつひら)親王(後一条天皇)が立てられました。
三条天皇の早期譲位と自身が外戚となることを望み、道長は妍子を中宮に。それでも道長にあらがい、天皇親政を目指す三条天皇は長年連れ添った娍子を皇后とし、二后が並立。その立后の儀に、道長は公卿(くぎょう)らと参内を拒むなど妨害します。不仲であった三条天皇と道長の亀裂は、決定的となりました。
そのような中、即位後間もなく目の病を患った三条天皇に対し、道長は強く退位を勧めます。それに対して天皇は、道長を摂政に准じて、政務をみさせ位にとどまろうとしますが、2年連続で内裏が焼失したことなど悲劇が重なり、長女・当子(とうし/まさこ)内親王の密通事件などもあって、失意の底に。長和5年(1016)、敦明親王を東宮とすることを条件に、道長の枇杷殿(びわどの)にて退位し、寛仁元年(1017)に出家、程なく41歳で崩御しました。
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