花山天皇が行方不明に!? 「寛和の変」
このような状況の中、こともあろうか、花山天皇は突然出家しています。これは兼家の謀略の結果でした。
事の経緯はこうです。花山天皇は、藤原為光(ためみつ)の娘・忯子(しし/よしこ)を見初め、女御にすることを望みます。実は義懐の妻は忯子の姉。義懐のとりなしもあって、忯子は入内しましたが、間もなく病没してしまいます。嘆き悲しんだ天皇は、出家をほのめかすようになりました。義懐らは懸命に天皇を支えますが、そこに目をつけたのが、権謀術数(けんぼうじゅつすう)に長けた兼家。
孫の懐仁親王の皇太子即位と、自分自身の摂政就任を早めるため、次男の道兼(みちかね)を使い、天皇に世の無常を説き「一緒に出家しましょう」と持ち掛けさせたのです。寛和2年(986)7月31日、道兼は花山天皇とともに京都・山科の元慶寺へ。
その隙に、兼家は清涼殿から三種の神器を持ち出して、親王のもとへ移します。一方、道兼は天皇の剃髪を見届けると、「最後の姿を父に見せたい」と寺を去り、再び戻ってはきませんでした。天皇はここで初めて謀られたことに気づいたといいます。
義懐らが天皇失踪を知り、明け方になってようやく元慶寺にたどり着いたとき、天皇は出家をしたあとでした。唖然とする義懐と惟成。天皇や義懐らが出し抜かれたこの一連の出来事は、「寛和(かんな)の変」と呼ばれます。
仏道に専念し人々の敬愛を集める
さて、その後の義懐はどうしたのでしょう。平安後期の成立した歴史物語『大鏡(おおかがみ)』によると、惟成の「今さらによそ人にて交らひ給はむ見苦しかりける」の言葉に深く納得し、ふたりでその場で出家します。義懐は名を寂真(じゃくしん)と改めて、比叡山延暦寺の横川(よかわ)の別所・飯室(いむろ)にて仏道に専念しました。息子たちの多くも出家しています。
藤原行成(ゆきなり)の日記『権記(ごんき)』には、藤原成房(なりふさ)が無常観から飯室に出奔。しかし、父・義懐に出家を思いとどまるよう言われたという記述があります(成房はのちに出家)。さらには、寛弘5年(1008)2月11日、花山院の葬送の際、入棺の奉仕をしたのが、義懐や成房らだったと記されています。
ほとんどの日々を修行に費やし、義懐は、花山天皇と同じ寛弘5年(1008)の7月17日、51歳でこの世を去りました。
学才はないものの、朝廷の公事や典礼など有職に詳しく、花山天皇の対面を保つのにも苦労したという義懐。政策面では、「花山院の御時の政は、この殿と惟成の弁として行ひたまひければ」(『大鏡』)といわれたほど、優れた側近でした。天皇を支え、最後は修行に専念した義懐のことを、人々は「極楽往生を遂げたに違いない」と語り合ったと伝えられています。
まとめ
花山天皇即位から出家まで、わずか2年で権力の座から滑り落ちた藤原義懐。政治の実権をめぐる争いが繰り広げられる中、義懐が人を陥れたというような記録はありません。天皇を支え、惟成の一言に納得して自ら出家し、仏道に専念。花山天皇の最後には入棺にも立ち合いました。天皇の側近中の側近として、潔い生き方をした人物と評されています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考文献/
『国史大辞典』(吉川弘文館)