藤原氏が他氏排斥!「安和の変」で失脚する

安和2年(969)、源満仲(みつなか)、藤原善時(よしとき)らが、守平親王を廃位し、為平親王を皇太子に立てようというクーデターがあると朝廷に密告。右大臣・藤原師尹(もろただ)は橘繁延(たちなばのしげのぶ)、藤原千晴(ちはる)らを逮捕し、流罪に処しました。このとき、為平親王の義父で、儀式に精通し朝廷で重用されていた左大臣の高明にも累が及びます。

検非違使(けびいし)に屋敷を取り囲まれ、大宰権帥に左遷する詔が伝えられたのです。高明は長男ともども出家して京に留まることを願いますが許されず、大宰府へ流されました。この一連の「安和の変」に首謀者は師尹であると、鎌倉時代の『歴代編年集成(れきだいへんねんしゅうせい)』は伝えています。

結果として師尹は左大臣に。実頼は最上位の関白太政大臣に就任、右大臣には藤原在衡(ありひら)が昇格しました。ちなみに、隠岐に流罪となった千晴は藤原北家の本流であり、平将門の乱を鎮めたことで知られる藤原秀郷(ひでさと)の次男。安和の変は、源氏、橘氏など他氏が排斥され、秀郷の系統が政治の表舞台から姿を消すことにつながりました。

明子は道長の妻に。自身は隠棲の晩年

高明の失脚後。邸宅の西宮殿は焼かれ、妻の愛宮や子息は次々と出家。二女の明子(めいし/あきこ/あきらけいこ)は叔父・盛明(もりあきら)親王の養女となり、盛明親王が没すると、東三条院で藤原詮子(せんし/あきこ)の庇護を受けて、のちに詮子の弟・道長の妻となりました。

また朝廷では摂関職が常設されるようになり、兼家、道長へと、師輔の家系が摂関家嫡流となります。

高明は天禄2年(971)10月に罪を許され、翌天禄3年(972)4月に帰京。葛野(かどの)に、隠棲したと伝わります。静かな晩年を送り、天元5年(982)12月16日に没しました。

風流人、知識人としての源高明

高明は琵琶の名手であり、和歌にも秀でていて『後撰(ごせん)和歌集』以下の勅撰(ちょくせん)和歌集に20首以上が選ばれています。

さらに朝儀・故実に精通していた高明の大きな功績は、『西宮記(さいきゅうき)』を著したことでしょう。公務、臨時の儀式、作法、装束、制度などが記され、以後の貴族政治に影響を与えただけではなく、現在も王朝政治・文化研究の貴重な史料です。

高明は、天皇の血筋でありながら皇位を継ぐ立場になく、母の位が更衣(こうい)で、左遷もされ、という状況から、光源氏のモデルの一人ともいわれています。

『後撰和歌集巻九断簡(白河切)』
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/B-3299?locale=ja

まとめ

源高明は皇子として生まれますが外戚になれず、当時の貴族政治では勝ち組とはいきませんでした。しかしながら、その全盛期、西宮殿で著した平安時代の儀式・故実の書『西宮記』は、第一級の史料として、後世にまで高明の名とともに伝えられていくことでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB

引用・参考文献/
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本大百科全書』(小学館)
『日本国語大辞典』(小学館)

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