慶長20年(1615)の「大坂夏の陣」では、真田信繁(さなだ・のぶしげ)ら豊臣方の武将たちの奮闘もむなしく、豊臣秀吉が築いた希代の名城・大坂城は灰燼に帰した。そして、太閤秀吉の忘れ形見である豊臣秀頼は、秀吉の権勢の象徴であった多くの財宝とともに、業火に包まれながら自刃した。
落城した大坂城は、徳川時代に再建された後、時代は下って昭和6年の復興工事を経て、現在の「大阪城天守閣」の姿となっている。城内は博物館として営業され、今年はNHK大河ドラマ『真田丸』の影響もあって、例年になく多くの観光客で賑わっているという。
だが、その一方で……。
落城間近の秀吉の大坂城から、危機一髪で持ちだされたとされるお宝を、今も大切に所蔵している古刹がある。知多半島の深奥部、南知多町の師崎港の近くにある「亀翁山 延命寺」である。永禄元年(1558)開基の同寺院には、観光客で賑わう大坂城とは対照的に、訪れる人はあまり多くはない。
この寺院に所蔵される大坂城由来のお宝こそ、「洛中洛外図屏風」だ。
寺伝によれば、この屏風は、大坂の陣の際に大坂城から持ちだされ、城内から逃れた姫君らとともに、豊臣方の御座船にあったという。その御座船を襲ったのが、知多半島の水軍の将・稲生重政。姫君と屏風は稲生重政に捕えられ、尾張藩船奉行を通じて、延命寺にもたらされたのだという。
『等伯』で直木賞を受賞した歴史作家・安部龍太郎氏と、三重大学教授で戦国史に詳しい歴史学者の藤田達生氏が、通常は非公開のこの屏風を取材・調査した。紙本金地着色、六曲一双の屏風は、左隻、右隻ともに154、5㎝×355㎝と豪華な設えであり、両氏は緊張の面持ちで、屏風に見入った。
大天守を中心に詳細に描かれる二条城、御所に献上品を運ぶ外国人、祇園まつりの祭礼や方広寺大仏殿(慶長7年に消失)など、当時の京都の街並みが描かれているが、さらに詳しく見ると、不思議なことに、徳川家康が滞在した伏見城が描かれていない。
この屏風が描かれた意図は、いったいどういうものだったのか……。その謎に挑んだ藤田達生氏は、屏風を詳細に分析し、ついに描かれた時期を特定した。そしてこの屏風には、豊臣方の「公武一統」「天下泰平」の思いが込められていると分析するに至った。
※この屏風調査の詳細は、安部氏と藤田氏がこのたび上梓した書籍『半島をゆく 信長と戦国興亡編』(小学館)で紹介されている。
400年の時空をこえて豊臣方の「平和への希求」を伝える貴重な屏風が、知多半島の深奥部に眠っているという事実は、かつて栄えたこの半島が、明治以降の陸上交通の発達によって取り残されたという現実をも、我々に知らせてくれるのである。
文/編集部
【参考図書】
『サライ』本誌の大好評連載が待望の単行本化!
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』(小学館)
著/安部 龍太郎、藤田 達生
「半島は陸のどんづまりだけども、海の玄関口でもある」――。明治に鉄道が開通するまで、わが国の物流を担っていたのは海運だった。物流の集積地である半島の港には、物があふれ、人々が集い、あらゆる情報が飛び交った。 だからこそ、歴史は半島で動いた。
信長が初めて鉄砲を使用した桶狭間6年前の合戦(知多半島)、鑑真やザビエルが上陸した世界に開けた港(薩摩半島)、戦国屈指の山城を擁した城下町(能登半島)、本能寺の変の司令塔が置かれた「鞆幕府」(沼隈半島)、頼朝、早雲、江川英龍と歴史を転換させた韮山の地(伊豆半島)、信長の天下統一戦線を水軍で支えた九鬼一族(志摩半島)など、直木賞作家・安部龍太郎氏と歴史学者の藤田達生氏が日本各地の「半島」を訪ね歩き、海と陸の接点から日本史を捉え直す。
【安部龍太郎氏トーク&サイン会のお知らせ】
日時/2016年12月14日 (水) 19時00分~(開場:18時30分)
会場/八重洲ブックセンター本店 8F ギャラリー
http://www.yaesu-book.co.jp/events/talk/10853/