花山天皇は忯子の死を嘆き、出家…
花山天皇は、忯子の死を深く悲しんだそうです。この心情は、さらなる高みを模索していた右大臣・藤原兼家(かねいえ)によって、巧みに利用されてしまいます。
このとき、兼家は自身の娘である詮子(あきこ/せんし)と円融天皇の間に誕生した懐仁(やすひと)親王を早く帝位につけるため、花山天皇を退けたかったのです。そのため、僧・厳久などを使い「この世は無常だ」と感じさせたり、ある時は密かに、そしてある時は公然と花山天皇に対して政治的圧力を加えました。
さらに、兼家は自身の次男・道兼(みちかね)を花山天皇のもとに指し向け、「一緒に出家しよう」という話を持ちかけさせたのです。
その道兼の提案を受け入れた花山天皇は、譲位後、元慶寺(がんぎょうじ=現在の京都市山科区にある寺)へと移ります。しかし、「ともに出家する」という道兼の話は、すべて虚言でした。道兼は花山天皇に剃髪を迫り、出家させ退位へと追い込んだのです。
花山天皇が退位したことで、兼家の目論見通り、懐仁親王が一条天皇として即位しました。そして、兼家は摂政となり実権を握ることとなったのです。
まとめ
忯子の父である藤原為光は、娘の死をひどく悲しんだと、平安後期の歴史物語『栄花物語』に記されています。忯子が没した翌年には右大臣に、翌々年には従一位となりましたが、為光はもはや出世など望んでいなかったそうです。
忯子の菩提を弔うため、為光は法住寺を建立しています。平安後期成立の歴史物語『大鏡』によると、法住寺は分不相応と言えるほど立派なものだったとか。短い生涯ではありましたが、忯子が実父や花山天皇からいかに愛されていたかが伝わってくるようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用・参考文献/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本人名大辞典+Plus』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本大百科全書』(小学館)