紫式部と結婚する
廷臣として、職務を全うしていた宣孝。長徳4年(998)頃、紫式部と結婚したと考えられています。紫式部の父・藤原為時(ためとき)と、宣孝の父・為輔は従兄弟であるため、宣孝と紫式部はまたいとこの関係でした。
また、為時は宣孝の同僚で親しい間柄だったとされます。紫式部は、父親からの紹介で宣孝と知り合ったのかもしれません。その後、夫婦となった二人の間には、賢子(けんし)という女児が誕生しました。賢子は、大弐三位(だいにのさんみ)とも呼ばれ、女流歌人として文化面で活躍した人物です。
彼女が詠んだ和歌は、後に小倉百人一首にまとめられることとなりました。その名の通り、優れた才能を持った賢い子どもに恵まれ、妻・紫式部とも円満な関係を築いていたとされる宣孝。穏やかな日々を過ごしていたとされますが、長保3年(1001)、当時流行していた疫病に罹り、生涯に幕を閉じることとなります。
宣孝の死後、紫式部は「見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦」という歌を詠みました。この歌は、宣孝に捧げるために詠まれたとされ、自身の歌集『紫式部集』にも収められています。
「親しかった方が煙となって消えてしまった夕方、陸奥国の塩釜の浦でたなびく塩焼きの煙でさえも慕わしく感じられる」という意味を持つこの和歌からは、紫式部と宣孝の関係性を垣間見ることができます。
まとめ
廷臣として数々の要職を歴任し、妻・紫式部とも良好な関係にあったとされる藤原宣孝。彼の死後、紫式部は代表作『源氏物語』の執筆に取りかかります。彼女の執筆活動には、宣孝と過ごした日々のことも色濃く影響していたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)