コシノジュンコ(ファッションデザイナー)

─11月に大阪・あべのハルカス美術館で一大展覧会を開催─

「素敵な洋服は、気持ちや顔つきを変えお洒落をするとやる気がみなぎります」

完全予約制(※https://www.jeudejunko.com/にて予約可能)の南青山ブティック「LA BOUTIQUE JUNKO KOSHINO MINAMIAOYAMA」にて。2000年に完成した自社ビルの1、2階が店舗になっている。
色紙に署名をお願いしたところ、「文字だけではさびしいわね」とコシノジュンコさんは絵を添えてくれた。

──11月から展覧会がありますね。

「『原点から現点』ですね。去年、大分県立美術館で一度やりましたが、この秋に私の地元・大阪のあべのハルカス美術館で開催することになりました。同美術館で、ファッションデザイナーの展覧会は初めてなのだそうです。私自身は元々、画家志望だったので感慨深いですね」

──詳しく教えてください。

「母(コシノアヤコ)は、岸和田で洋裁店を営んでいました。3学年上の姉のコシノヒロコも、3学年下の妹のコシノミチコもファッションデザイナーなので、私が好んでファッションの道に進んだと思われるかもしれませんが、そうではありませんでした。

私は岸和田高校で美術部に入り、油絵を描いていました。大阪市立美術館の大きな展覧会でも入選したこともあったため、“将来は美大に進み、世界で活躍できる画家になろう”と夢を抱いていました。文化服装学院で学ぶ姉が、デザイン画で著名な原雅夫先生に師事していたのですが、ある日、原先生が実家にいらした時のこと。私の油絵を見るなり、“いいですね。この絵はどなたのですか”と聞かれ、“私です”と答えると“なぜ才能があるのにお母さんと同じ仕事を目指さないのですか”とおっしゃったのです。

私は“姉の真似をしている”といわれるのが嫌でした。姉はおしとやかで、私はお転婆と性格も異なるので、比べられるのも辛い。とはいえ、高校も美術部も一緒。さらに、姉の通う文化服装学院に行くなんてもってのほかでした。ですが、原先生が言うならファッションデザインも面白いかと思ったのです」

コシノさんは、ファッションデザイン画を髪型から描く。「ヘアスタイルが決まると、モードも決まるのよ」とコシノさん。愛用の筆ペンを走らせると、それぞれ10数秒ほどで、4枚のデザイン画ができあがった。

──その後、文化服装学院に入学しました。

「描くのは好きでしたし、母を見て育ったこともあり基礎はできていました。水を得た魚とはこのこと。19歳の時に、新人デザイナーの登竜門とされるコンテストで装苑賞を受賞し、私は今でも最年少受賞者です。名前が雑誌の表紙に載る際、『小篠順子』という漢字が目立たないと気になり、カナのルビを振るように『コシノジュンコ』としました。全部で7文字なので他の人より名前が長く、併記した際に目立つのがいいと思い、以来カナ表記にしています。その後、姉や妹がカナ表記を使い始め、おまけに母まで、74歳の時に『アヤコ・コシノ』ブランドを創設し、コシノアヤコと名乗り始めたのです。デザインまで私のものを真似ようとするので怒ったら、“コピーして何が悪いんや。あんたのことは私が産んだんやで”と反論されました(笑)」

──コシノ家はドラマにもなりました。

「NHKの連続テレビ小説『カーネーション』(2011年)は、母の生涯を基にしたドラマです。放送以来、『コシノ3姉妹』と呼ばれることが多くなり不思議でした。3姉妹で活動したことは一度もないのですから。ともあれ、私も欠かさず観るほどのお気に入りのドラマでした。海外でも人気だったようで、カザフスタンやウズベキスタンなど、思いもよらない国でも放映されていました。とくにブラジルでは、現地でお会いした多くの方がドラマについて熱く語ってくれました」

「外国では名刺は通用しません。ファッションで信頼されるのです」

──再来年開催の大阪・関西万博のシニアアドバイザーを務めていますね。

「これが私にとって、2度目の万博になります。前回の1970年の大阪万博では、3つのパビリオンのユニフォームをデザインしました。大阪万博は、誰もが初めての経験で、とても新鮮でした。戦後、東京オリンピック(1964年)でようやく日本は世界に認められたわけですが、大阪万博で今度は日本人が世界と繋ったのです。

ジャズシンガーの綾戸智恵さんは、中学生の時に大阪万博を体験し、初めて外国の方に接して、外国の文化に触れたと聞きました。その経験が大きなきっかけになり、17歳の時に高校を休学してアメリカに渡ったそうです。綾戸さんに限らず、私も含めた多くの日本人にとって、1970年の万博の体験は大きなものだったと思います。今度の万博もそうなることを祈っています」

1970年代、赤坂のディスコ『ムゲン』での一枚。様々な分野の文化人と交流し、大人の流儀や教養を吸収、新たな仕事のきっかけにもなった。(写真提供/天野幾雄)
1985年、「日本の原点を知りたい」と中国へ。北京で中国最大のショーを開催した。その時に手に入れた中国の茶器の数々が、自宅に設えられた唐風の茶室に並ぶ。

──万博決定は2018年のことでした。

「私も世界中のあらゆる国に赴いて招致活動をしました。まさかそのあと、世界に新型コロナウイルスが蔓延するなんて思ってもみませんでした」

──ファッション界にも、コロナの影響はありましたか。

「私自身は、ちょうどあの時、パリ(フランス)に滞在していました。2020年2月14日に日本に戻ってきたのですが、あと少し帰国が遅れていたら、パリに閉じ込められるところでした。帰国することができたのはいいものの、新型コロナウイルスのせいで社会は滅茶苦茶。ファッションショーなども相次いで中止になり、店舗も自主休業を余儀なくされ、行動の自由にも制限がありました」

──不安も不満も募ります。

「ですがそういう時だからこそ、与えられた時間を活かさないともったいないと思ったのです。一日中家にいるのは、直近20年で初めてのことでしたけど、暗い顔をしていても何も変わりません。時間があるなら、今しかできない創造をすればいいと考え、止まっていないで動いてみることにしました。

『運動』という言葉があります。『動く』ということは、止まらずに前に進むことです。進むと、行動が気持ちに作用して、すべてが前向きになるのではないでしょうか。止まらず動いていれば何かが変わる気がします。つまり『運』が『動』くということです。運は、待っていても来ないと思います。動かなければ状況も良くなりません」

──コシノさんは何をなさったのですか。

「手始めに、パリの展覧会用に団扇をデザインしました。表面に言葉をしたためる、という構想で、150本の団扇を用意しました。展覧会自体はコロナ禍で叶わなかったのですが、その代わり、団扇の言葉を基に、昔のことも思い出しながら、エッセイを綴りました。内容は『コシノジュンコ 56の大丈夫』(世界文化社)という書籍にまとめています。こういうことができたのも、コロナ禍で時間ができたお陰です。また、自宅では油絵もたくさん描きました。このところ絵の展覧会を何度かやりました。
 
家に居るだけではなく外に出て、体も動かしていました。始めてから習慣にしていたジム通いはコロナ禍によりできませんでしたが、家の近くの青山霊園までランニングしていました」

──緊急事態宣言があり、自由な外出が叶わなくなりました。

「コロナ禍で家にいることが増えた方も多いことでしょう。私は世の中の人たちが、家でもお洒落をしていた方と、人に会わないので着るものにかまわなくなった方とに二分されたように思いました。現在、コロナが収まりつつある中で、いきいきと人生を謳歌しているのは、変わらずお洒落していた人たちのように感じています。人生の張りを失わなかったためかもしれません。今からでも遅くはありません。目一杯、お洒落をしてみてください。家の近所の散歩でも構わないので、お洒落をして外に出てみる。きっと新しい自分に出逢えるはずです」

──まず格好から入る。

「服装は、気持ちも顔つきも変化させるように思います。仕事の時は仕事の勝負服を着る。体を鍛えたいなら、格好いいスポーツ・ファッションで身を包む。素敵な格好をすると、頭も身体も勝手に動き始めるのです。もし気分が優れない日々が続くなら、男女を問わず、思い切ってお洒落してみてください。そうすると幸福感に包まれ、やる気がみなぎるはずです。
 
私は外国で仕事をすることが多いのですが、日本と違って名刺が通用しません。肩書では見てくれないのです。どういった点で人を判断しているかというと、ファッションなのです。経験上、素敵な格好をしている人は、それだけで信頼されるように思います。見た目は大切なのだと、外国に行くとより強く意識します」

「若い時の得がたい経験はすべて目の前の“今”を楽しむためにある」

──服装が人を変えるのですね。

「生まれ故郷の岸和田は、“ケンカ祭”と異名を取るだんじり祭があります。町会ごとに趣向を凝らした30台以上のだんじり(山車)が、町を疾走します。なぜ、だんじり祭の活気があふれるのかというと、町会ごとにお揃いの法被を着ているからだと思います。あのユニフォームが、皆を一致団結させ、年齢を問わずエネルギーを注ぎ込んでいるのです」

──だんじり祭は大切な行事なのですね。

「だんじりのことを思うだけで、血が騒ぎ、居ても立ってもいられなくなります。私の実家の2階は、だんじり見物の特等席です。私は見ているだけでは収まらず、小学校から高校2年生まで、若衆にまざり、だんじりの先頭で綱を引いていました。

考えてみれば、法被は今でいうスポーツのユニフォームなのです。私はスポーツチームのユニフォームを多く手掛けているのですが、だんじり魂が活きています。例えば、バルセロナ五輪の男子バレーボール日本代表のユニフォーム。左右のソックスの色を変えたりして、独特のデザインでした。目立つユニフォームは、負けると格好が悪い。勝てば誰よりもかっこいいのです。他にも、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)のユニフォームなどをデザインしました。“あなたのユニフォームは強い。これを着ると、いつも以上に力が出る”と言われたこともあります」

──ユニフォームが力を与える。

「東日本大震災が発生した2011年。その年の4月、私たちに何かできないかと考え、音楽家の三枝成彰さんや湯川れい子さん、作家の林真理子さんらと立ち上げたのが、チャリティコンサート『全音楽界による音楽会』です。これは、現在も続いています。出る人も観る人も、全員1万円以上の寄附金を持って毎年集まります」

──常に新しいことに挑まれていますね。

「“若い頃に戻りたい”という方がいますが、私は一回もそう思ったことがありません。たしかに、若い時にたくさんの得がたい経験をしましたし、謳歌しました。ですが、これらの経験はすべて、目の前の“今”を深く楽しむためにある。過去はごみ箱にポイッ、です。過去より“今”のほうが断然面白い」

──とはいえ、いずれ終わりも来ます。

「人生の終わりは、考えたこともありませんし、考える必要も感じません。うちの母は92歳の時に脳梗塞で亡くなりましたが、最後まで現役で働いていました。母の口癖は、“忙しくて死んでる暇がないわ”でしたから。笑い話ですけど、真理でもあると思うのです。私自身も、仕事をやり続けることが生き甲斐ですし、仕事は自分の生命でもある。だから引退はしません。仕事が私の人生です」

──生涯現役、ですね。

「一歩前に足を出す、といったらいいでしょうか。出せば、行き先はわからずとも進んでいきます。止まっていてはだめ。とにかく足を出す。足を止めなければ、いろんな人に出逢います。きっとこれからも、たくさんの面白いことが私を待っているのでしょうね」

南青山ブティックの1階と2階を繋ぐ階段にて。ジャケットから着替えて、ストールをまとうコシノさん。カメラを向けると、ストールをたなびかせて撮影に臨んだ。

コシノジュンコ(こしの・じゅんこ)
大阪生まれ。文化服装学院デザイン科在学中、装苑賞を19歳で受賞。パリ・コレクションをはじめ中国・北京や米国・メトロポリタン美術館など世界各地でファッションショーを開催。文化功労者。旭日中綬章、仏レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエなど受章。展覧会「コシノジュンコ 原点から現点」が大阪・あべのハルカス美術館で11月23日より開催される。

※この記事は『サライ』本誌2023年10月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)

 

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