関野吉晴(探検家、人類学者、医師)
─全地球を歩き様々な民族と交流し半世紀。人間の行く末を考え続ける─
「困っている人には手を差し伸べる。その善性こそが人類共通の特質です」
──探検と冒険はどう違うのでしょう。
「人によって解釈は違うと思いますが、僕なりの考えだと冒険は自分に対する挑戦。探検は社会に還元できる成果を目指すことです。大学探検部出身者はこのあたりにこだわるんですよ(笑)。あなたがやっていることは冒険ですねといわれると、いえ、探検ですと返す。僕も以前はそうでしたが、最近は冒険家でもいいかなと思っています。動機がピュアで、世の中の役に立たないのがいいですね。
社会への還元という考え方もいろいろな解釈ができます。コロンブスはスペイン王室をスポンサーに大西洋を渡りました。水平線の先には滝があると考えられていた時代で、それは命がけの挑戦でした。当時のヨーロッパはアジアに打って出ようにもオスマン帝国という強大な壁が立ちはだかり、海から外へ出るしかなかった。偶然に新大陸を発見したコロンブスをはじめ、大航海時代のチャレンジャーはヨーロッパの人からすればヒーローですが、彼らは帝国主義の手先でした。大陸の植民地獲得など挑戦の成果はヨーロッパに貢献しました。しかし、アフリカや新大陸の人たちのようにひどい抑圧を受けた人たちからすれば、彼らは悪魔のような存在です」
──時代が探検の評価を決めるのですね。
「誰もの役に立つという目的を掲げたのがその後の学術探検でしたが、成果が世界中の人たちに平等に還元されたかというと、それもまた問題を抱えていました。日本をはじめ初期の学術探検は帝国主義の先兵でしたし、今もイデオロギーや国家・企業の思惑をなんらかの形で受けています。僕自身は社会への還元よりも、汗をかいて行動することによる個人的な気づきを大切にするようになってきて、探検より冒険に近いように思います」
──子どもの頃の夢は何でしたか。
「中学生くらいまでは野球選手になりたいと思っていました。鉱石ラジオを組み立てたり、
ラジオの気象通報を聞きながら天気図を描いたりするのも好きで、その後は科学者になりたいという気持ちに傾きました。
家庭ですか? 男ばかり5人兄弟の末っ子です。父親は小学校の校長で、母親は自宅で和裁教室を開いていました。へんな厳しさのある家でした。勉強をしろとはいわないのですが、山にひとりで登りたいというとやめろといい、アルバイトも禁止でした」
──大学では探検部を創設されました。
「僕が入った一橋大学には探検部がなかったので。探検がしたかったというわけではありませんでした。自然も文化もまったく違う、自分の知らない世界へただ行ってみたかった。そういう場所へ自分を放り込んでみたら、一生やり続けたいことが見つかるのではないか。そんな程度の動機でした。
大学探検部は山岳部から派生しています。登山は頂上を目指しますが、先の世代が高い山を登ってしまったので後輩たちはパイオニアにはなれない。頂上と違うフロンティアを目指したのが探検部です。関東だと早稲田大学。関西では京都大学が老舗で、関西大学と関西学院大学も盛んでした。一橋大学には探検の経験がある先輩がいなかったので、早大探検部の合宿に潜り込んで、テントなし、雪洞だけで冬山を縦走したり、社会人山岳会で登山技術の習得に力を入れました」
──南米に長く通うことになりますね。
「最初の20年間は南米だけでした。アンデス、アマゾン、ギアナ高地、パタゴニア。とくにアマゾンに憧れていました。なぜなら最も未知な世界に思えたからです。最初はアマゾン川の川下りに挑戦しました。自然のスケールの大きさを自分の体で受け止めることはできたのですが、イメージしていたような秘境感はありませんでした。
なぜなら、川というのはどこも開けているんですよ。船があれば比較的楽に移動できるので、探検家も宣教師もみんな川から奥地へ入っていったのです。川沿いの集落は交流拠点で近代文明も早くから受け入れています。つまりアマゾン川はハイウェイ。北海道から九州までを高速道路だけで辿っても日本を旅したことにならないように、アマゾン川も支流まで分け入って足で歩かないと知りたい世界に出会えないことがわかったのです」
──今も印象に残る出会いはなんですか。
「アマゾンの奥地でテントを張る場所を探していると、川のほとりで水しぶきが上がっていました。近寄ってみると子どもと若者が遊んでいました。若者にスペイン語でここに泊まってもいいかと尋ねたのですが、言葉がひとつも通じません。文明とほとんど接触したことのない人たちでした」
「自分は狩猟採集社会では役立たず。それが医師になった動機です」
──どう意思疎通を図ったのでしょう。
「身振りを交え日本語で語りかけると、一緒に来いという仕草をしました。着いたのは亀の卵を採るために夏だけ利用する小屋でした。そこにいたのは女性たちで、僕のためにひとつの小屋をあけ、敷物と飲み物を出してくれました。僕はそのお婆さんに土産のマッチを渡そうとしたのですが、却下されてしまいました。見ず知らずの人間からもらう筋合いはない、というような硬い態度でした」
──泊めはするけれども、歓迎はしない。
「その後、男たちが帰ってきました。彼らも遠巻きにしているだけで目を合わせようとしないのです。後悔しましたね。こんなところに来るんじゃなかったと。それでも次に芋を持ってきてくれました。見ず知らずの人間でも、困っていれば寝る場所と食べ物を与えることが彼らのマナーなのだと理解しました。
人の中で孤立することがこれほど不安だとは思いませんでした。寂しさを紛らわせるため歌いました。どんぐりころころ、兎追いしかの山と、知っている歌を次から次へ。自分でも飽きた頃、子どもたちが来たのです。正座をして僕の歌を聞きはじめました。へえ、アマゾンにも正座の習慣があるんだと見ていたら、彼らもどんぐりころころと歌いだした。やめるわけにいかなくなりました(笑)」
──歌が持つ力ですね。
「歌は言語より古いコミュニケーションといわれていますからね。さすがに歌いっぱなしで疲れたので、ちょっとタイムと日本語で宣言して休んでいると、お土産を拒否したお婆さんが巻き貝を煮たものを持ってきて、穏やかな表情で食べろとすすめてくれたのです。心の距離が縮まったことを感じました」
──医者を目指した理由はなんですか。
「先住民の集落に居候するときは、なんでも手伝いますからとお願いします。けれど狩りのため一緒に森へ入ると、靴なしで歩けない僕は、裸足の彼らより音を立てるので、獲物が逃げてしまう。狩猟採集社会での自分の非力さを突きつけられました。彼らの役に立てることは何かと考え、浮かんだのが医療でした」
──医者になれば恩を返せるだろうと。
「もうひとつは生業的な事情です。探検家という職業は実際には存在しないのですよ。そう呼ばれている人たちはみなジャーナリストや研究者、写真家といったもうひとつの顔を持っています。僕は、辺境で今なお昔ながらの社会形態を維持している人たちと純粋に友達になり、暮らしを共にしたかっただけ。けれど食べていく技術がない。それに気がついて横浜市立大学の医学部に入り直し、医師の国家資格を取得したのです」
──グレートジャーニーは大きな挑戦でした。
「およそ700万年前にアフリカで生まれた人類は、ホモ・サピエンスの時代になると世界中へ拡がり、1万年前に南米大陸の最南端までたどり着きました。そのルートを2本の足と手漕ぎの舟、自転車、家畜の力だけでというルールを課し、地域の先住民たちと交流しながら逆方向に歩こうと思い立ちました。
1993年12月に冷たい海風が吹き荒れるチリ南端のナバリーノ島をシーカヤックで出発しました。アンデス高地を自転車で越え、筏でアマゾン川を遡り、ギアナ高地や旧知のヤノマミ族たちがいる密林地帯を歩きました。北米を越え、ベーリング海峡をシーカヤックでユーラシア大陸に渡りました。北東シベリアのツンドラ地帯は先住民に技術を習い犬ぞりやトナカイのそりで移動。ゴビ砂漠を駱駝で横断し、ヒマラヤ山脈は塩の道を使い自転車で越えました。中東から北アフリカの砂漠地帯は再び駱駝で。そして2002年2月、自転車でサバンナを走り、人類最古の足跡化石が出土しているタンザニアに着きました」
──危険な目にも遭ったのではないですか。
「自然の厳しさに由来する困難は冷静に決断すれば乗り越えられます。最も緊張したのはコロンビアとパナマの国境でした。この付近のジャングルは世界で最も治安が悪いといわれ、ゲリラや麻薬組織、盗賊が跋扈する無法地帯。この世で最も怖いのは、過酷な環境でも猛獣や伝染病でもなく、本来あったはずの善性を喪失した人間なのです」
「水、空気。自由。当たり前の存在を大事にしないとツケがくる」
──ゴールしたときに何を感じましたか。
「地球は思っていたより小さかったなと。だって、歩いて回れる距離なんですよ(笑)。1万年以上前と現在とではどちらが歩きやすいかといえば昔です。グレートジャーニーは冷戦時代だったらできなかった。たまたま世界が比較的平和な時期だったから実行できたのです。日本人であることも幸いしました。僕のパスポートの国籍がアメリカやロシアだったら成功できなかったでしょう。今、人類にとって最大の障壁は国境なのです。
ゴールしたときふと思い出したのが、シベリアで出会った老人の言葉でした。スターリン時代に強制収容所へ入れられたロシア人です。解放されたときの思い出を聞くと、空の色が違って見えたと語りました。そして自分はラッキーだったとも。ひどい目に遭ったのになぜラッキーだなんていえるのか。彼は20代から40代まで、家族で暮らし、好きな場所に行き、好きなことをして過ごすといったあらゆる自由を禁じられました。だからこそ、当たり前のことの大切さを誰よりもよく知っていて、それを噛み締めて生きているのです」
──当たり前のことこそが大切なのですね。
「水。空気。緑。土。こういう存在がいかにかけがえのない存在かということにも改めて気がつきました。喉がからからの状態で水辺へたどりついたときのありがたさ。極寒の地でしみじみ感じる、人類が発明した毛皮の防寒着のありがたさ。病気になってはじめて普段健康であることの大切さにも気づきます」
──今は地球永住計画という活動も。
「近年、いろんな方がいろんな立場で火星移住計画に言及しています。火星探査の次の人類の目標は火星移住で、どんな技術が必要かということがけっこう真剣に議論されていますよね。でも、なにゆえ移住なのでしょう。火星の資源を地球のために利用することが最終的な目的なら、それは大航海時代の植民地思想と変わらない。使い尽くしたのでほかへ行こうという発想でよいのか。考えなければならないのは地球に住み続けること、足元の環境のことではないかと思い、毎月さまざまな専門家を招き勉強会を開いています」
──足元にこそ真理があるのですね。
「地球ってほんとうに奇跡的な星なんですよ。僕たちが生きているこの環境は無数の偶然の積み重ねで成り立っています。その地球が危機に直面している。宇宙を科学的に探究することは否定しません。しかし、人類が今まさに取り組まなければならないのは火星移住よりも地球永住。自分たちのふるまいを謙虚に、そして真剣に見つめ直すことです」
関野吉晴(せきの・よしはる)
昭和24年、東京生まれ。一橋大学在学中に探検部を創設、アマゾン川全流を下る。その後医師となり南米への旅を重ねる。2002年、アフリカで生まれた人類が南米の端まで到達した約5万㎞の行程を自らの筋力で逆ルートから辿るグレートジャーニーを足かけ10年かけて達成。人類が生態系を破壊せず生き続ける方法を多角的に考える地球永住計画を主宰する。武蔵野美術大学名誉教授。
※この記事は『サライ』本誌2022年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工 撮影協力/森 龍一)