編集者A(以下A): 別府温泉から国道10号を北九州市方面に走っていくと右に分岐する道があり、その道を進むと日出藩領に入り、ほどなく日出城跡にたどり着きます。
ライターI(以下I):本丸跡に地元の公立小学校がたっているんですよね、確か。
A:はい。日出藩は豊臣秀吉正室の寧々の実家木下氏が藩主を務めた藩で、寧々の実兄家定の嫡男木下延俊が初代藩主になります。ちなみに延俊の弟が小早川秀秋になります。寧々の実家の木下氏は、豊後日出藩2万5000石と木下利房の備中足守藩の2万5000石の2藩が幕末まで命脈を保ちます。一貫して家康の立場を理解して行動した寧々の実家の扱いとして、2万5000石が妥当なのか否かという問題はさておき、当地の伝承を紹介したいと思います。
I:秀頼の息子豊臣国松のことですね。
A:はい。『どうする家康』では登場しませんでしたが、秀頼には側室との間に生まれた国松という男子がいました。正史では、大坂夏の陣の後に捕らえられて斬首されたといわれていますが、実は大坂の陣の後に父秀頼とともに薩摩に逃れ、生き永らえたという説です。
I:なるほど。
A:これは日出藩主家の末裔で18代当主木下俊煕氏が昭和43年(1968)に刊行した『秀頼は薩摩で生きていた』で紹介した話になります。なんでも藩主家で一子相伝で伝えられてきた秘話だというのです。その『秀頼は薩摩で生きていた』が手元にありますので、概要をかいつまんで説明します。
I:はい。
A:大坂の陣で大坂城が落城した際に、秀頼と国松は隠し穴から脱出して、薩摩の島津氏を頼ったそうです。そういえば鹿児島に取材に行った際に「秀頼の墓」があったことを思い出しました。その後国松は、豊臣の縁者でもあった日出藩木下家を頼って薩摩から日出に移ったというのです。
I:重複しますが、当時の藩主木下延俊(木下家定三男)は、秀吉正室寧々の甥であり、小早川秀秋の実兄になります。
A:はい。藩主の延俊は日出藩を頼ってきた国松に「縫殿助」という名を与えたそうです。そして、当時3万石だった石高のうち1万石を「縫殿助」改め木下延由(のぶよし)に分知するよう遺言したそうです。この遺言を聞いた家老は3万石のうち1万石ではあまりにも多すぎると、密かに5000石ということにして、延由には立石領5000石が与えられたのです。
I:こういう話が藩主の一子相伝というのは歴史ロマンですね。
【木下延由が豊臣秀頼の子・国松(つまり豊臣秀吉の孫)だったのではないか? 次ページに続きます】